『天国への階段』大田区幻想奇譚、弐 【試し読み】

収録作の短編「ウサギのバイク」全文を掲載します。
面白い!、と思っていただけたら、是非Amazon Kindleでほかのお話もご覧ください。

また、こちらは文学作品展示即売会「文学フリマ」というイベントで、文庫版の頒布もしています。
おもに東京開催の年2回(5月と11月)に出店していますので、是非ご来場くださいませ。


    ◇◇◇

「青野くん……?」

突然の呼びかけに、青野秀樹は肩を震わせて身体を起こした。

「……須川?」

須川唯の姿を認めた秀樹をよそに、彼女は膝を揃えると乱れた息を整えた。

「向こうのね、土手の向こうのコンビニで……」

怪訝な顔の秀樹にもかまわず、

「見覚えのあるヒトがいてね、すごい気になって。いてもたってもいられなくて。誰だっけ、って走って追っかけて。そしたら」

矢継ぎ早の言葉をとめ、

「青野くんだったってわけ」

唯は秀樹を指さしたあと、大きく深呼吸した。
呆気にとられた秀樹に、

「変わんないね青野くんは。あんまり驚かないしさ」
「……これでも驚いてる。しばらくぶりだな」
「そうだね」

唯は胸を反らし、拳で額を拭った。
高い蒼天、流れるちぢれ雲。
未だに残る強い陽ざし、芯に感じる秋の香。

「なにしてたの?」
「それはこっちの台詞だ。どうした一体」

二人はぽかんと、お互いを見やった。
皺になったスーツ、投げ出した鞄。
唯はシャツにリーバイス。肩に下がるバックパックの青が鮮やかに映える。
秀樹が横たわっていた土手の芝生が、少しだけ燻んでみえた。
やがて、唯は微笑いはじめた。
乱反射する河川の水面、ちらちらと瞳を射す刺激に秀樹は眼を細めた。

    ◇◇◇

「無断欠勤?」

と唯は白い歯をみせた。

「笑いごとじゃない。少なくとも本人には」

秀樹の言葉に、

「青野くんって、そんなに真面目だったっけ? 嫌なら辞めちゃえば?」
「できないから、こうしている」
「……やっぱ少し変わったかも。青野くん」

反射的に向き直った秀樹の先には、穏やかな唯の眼差しがあった。

「まあ、気負わないことだよ」

不意を突かれた秀樹は。
思わず、微笑いこぼしてしまった。
秀樹に笑い返した唯はゆっくりと宙を望み、ふと洩らした。

「そら……」
「え?」
「空が。すごい綺麗だねえ」
「……あの時みたいにか」

秀樹の記憶に浮かんだエピソード。
ぽかんとした唯は、次には表情を歓喜の色に染めて、

「覚えてた?」

嬉しそうな唯の笑顔。

「空だけをみて、ふらふらと道路に出てしまうようなヤツを、忘れるわけがないだろう」


数年前の過去。
学校からの帰宅途中に、唯は車に轢かれかかった。
その掌を取り、救ったのはそばにいた秀樹。

「……そら」

開口一番、唯が呟いた言葉。

「空が、すごい綺麗だったから」

夕陽を背に、唯は秀樹に微笑いかけた――。

「昔よりいいヒトになったみたい。近寄りがたい感じだったからね、青野くんは」

記憶と二重写しに、今の秀樹と唯に重なった。

「そんなことは」
「いやいや。青野くんはコワイ、って評判だったよ」
「そうかな?」

会話が途切れた。

「ね?」
「ん?」

唯が小さく呟いた。

「ウサギくんのこと、話していい?」
「イズブチ・ユタカ……?」
「そう。私たちの、友だち」

もう忘れかけていた、懐かしい面影。

「昔のハナシだ。随分、以前の」

懐古に近い響きを、秀樹は意識した。

    ◇◇◇

イズブチが愛用していたギターのハードケースには、ルーニー・テューンズのキャラクターが貼られていた。
学園祭のステージで、オベーションのエレアコを抱えたイズブチに。

「ウサギくーん」

奇抜な声をかけたのは、ステッカーを張りつけた張本人の唯だった。
何曲かの演奏のあと、イズブチは照れたようなはにかみと一緒に、秀樹たちに掌をふった ――。

「イズブチくん、いつも言ってたこと、覚えてる?」
「イズブチが?」
「そう」

唯は、少しだけ笑ったようだった。
秀樹は軽く息を吸い、

「俺たちはどこでも行ける。なんでもできる。自分が認めない限り限界はない」

深夜のファミレスで。自販機の前で。
イズブチが笑い始める瞬間を。
新鮮な感情とともに思いだしている自分を見出して、秀樹は少し驚いていた。

「持論なのか誰かの受け売りか、ホント、変なコだったね」

歳を重ねることのなくなったウサギ。
笑顔は変わらないまま、歳月だけはどんどん過ぎて。

「だけど、楽しかった」
「そうだな」

会話のなかに漂う、乾いた感慨の正体は。
二度と戻らない過去と、諦観。

「いつか旅にでるって」
「そう考えようと思ったこともある。ホントにバイクに乗って旅してるって」
「じつは……」

唯が口をつぐんだ。
逡巡の表情を浮かべた唯は、やがて意を決したように、まっすぐに秀樹をみた。

「……『ウサギのバイク』ってハナシ、知ってる?」

    ◇◇◇

久々の帰郷に、旧友との再会。
そこで訊いたハナシが始まりだと、唯は口にした。
河川のグラウンドから、時折わき起こる野球少年たちの歓声を耳にしながら。

「なんだ、それ?」

秀樹の問いに、かぶりを振りながら唯は、

「超常現象なんて信じてないし、たちの悪いハナシだと思うけど……」

言葉を切ったあと、

「……無念を抱えて、迷って、走ってるんだって」
「……馬鹿な」

吐き捨てた言葉に、苛立ちが重なった。

「噂で花を咲かせるようなお伽噺じゃない! あいつはオレたちと同じ時間を過ごしたんだ。オレの横で!」

歯止めの効かない言葉。

「お前の、すぐ隣で!」

はっとした秀樹。
言葉を受けた唯はただ、泣き笑いに見える表情のまま、

「……痛いね」

呟くと、顔を伏せた。
気まずい沈黙を、少年たちの歓声が埋めた。

「ごめん」
「……私こそごめんなさい」

唯は紡ぎはじめた。

「私も初めて聞いたとき、嫌だなって思った」
「……うん」
「嫌だったけど。でもね、どこかでこうも思っていて」

唯は、顔をくしゃくしゃにして笑った。

「本当だったらいいなあ、って」
「……」
「逢いたいなあ、逢えるかなあ。って」

浮かべた笑顔の瞳から、涙が零れて落ちた。
不意に途切れた言葉。
秀樹は、頬を拭う唯にかける言葉を探しながら、ようすを窺った。
やがて、唯は言葉を紡ぎだした。

「……国道を、走ってたんだって。追いつけなかったって」
「……顔は?」

口をついてでた疑問に、秀樹は自身で驚いた。

「フルフェイスっていうの? 顔は解んなかったみたい」
「なら、車種は……?」
「バイクのことは詳しくないから……」

秀樹は腕を組み、固く眼をとじた。

「なんでイズブチだって特定できるんだ?」
「ウサギだよ」

間髪いれずに唯はこたえた。

「私が貼ったステッカーをみたって」

    ◇◇◇

「簡単に考えるとさ」

イズブチが言葉にする。

「排気量をあげる、回転数をあげる」
「速く走るために?」

軽く頷きながらイズブチは、

「極論でいえば、バイクはこのふたつを突き詰めた乗り物なんだよ」
「へえ」

気のない返事の秀樹。
不意に差しこんだ陽射しに顔をしかめ、校舎の外に眼を向けたイズブチは、

「だけど突き詰めていくうちに変化もあって」
「変化?」

あいづちを入れた秀樹に、大きく頷いたイズブチは、

「新たな技術で回帰する、別の流れが発生したんだ」
「あえて過去の技術で作るってことか」
「速さの追求とは別の意識だね」

軋む椅子にもたれながら、

「まわりに振り回されず、自分の速度で進む自由も選べる」
「誰かの言葉?」

秀樹の問いに、イズブチははにかんで、

「おれが憧れるヒトの言葉」

大切そうに、小さく呟いた ――。

    ◇◇◇

黙りこんだ秀樹のようすを、唯は不思議そうな表情で見つめていた。
その唯と視線が交錯した。
刹那、秀樹の裡でなにかが動きだした。

「それを見たヒトは?」
「美香と佳代子と、あと恵美も」
「みんな近所に住んでる?」

秀樹のようすに、唯は戸惑いを露わにしながらも、おずおずと頷く。

「目撃された時間は解る?」

唯は腕時計に眼をおとし、

「だいたい、一七時とか一八時とか、そのくらいの時間にみたって」
「……逢魔が時か」

呟いてみて、ふと秀樹は、

「けっこう知れわたってるのか? この噂」
「さあ、どうなんだろう……?」

唯も首を傾げる。
秀樹はスマホを弄りだしていた。
いくつかのキーワードで検索するようすを見守っていた唯に、

「似たような怪談はどこにでもある。ただ、こいつに関してはちょっと違う気がする」
「どういうこと?」
「この手のハナシは、だいたいなにかの尾ひれがつく。見ると死ぬとか、憑りつかれるとか」
「うん」
「このおまけが、大多数のヒトの手に渡った証だ」
「ん?」
「伝言ゲームだよ。内容を修正するヤツがいない伝言ゲーム」
「……お話が変わっちゃう、ってこと?」
「そう。だから、この噂はまだ新しい」

と、秀樹は半ば強引に断定した。
小首を傾げる唯に、

「噂がまだ原型を保っているのは、ヒトが触っていない証拠だ」
「つまり?」
「ウサギの巣は、まだ手の届く処にある、ってことかな」

理解できない、とばかりに唯は口を尖らせた。

    ◇◇◇

陽射しは傾き、黄昏色を濃くしていた。
二人の影が長く伸びて落ちる。
行きかう車も増え始めた国道、テールランプが目立ち始める時間。
河川を渡す鉄橋から舗道に立ち、欄干から景色を仰ぐ。
沈みゆく夕日を背に、工場群や民家、対岸のオフィスビルの輪郭を写し。
唯は、ガードレールから軽く身を乗り出し、

「混んでるねえ」

と乱れた髪を掌で抑えながら言った。

「この橋で、ウサギのバイクが見つかるかも知れない」

秀樹の言葉に、唯は振り返った。

「見つからないかも知れない……」
「……そうなんだよね」

唯の返事は、秀樹を軽く驚かせた。

「けっこう見に来てるんだ。ハナシ訊いてから」
「そうか」
「確信なんてないけど。でも、何回か来てみるとさ」
「うん」

ほっ、と唯は溜め息。

「出てくるかも、出てくるだろう……。もう、出てこい! って」
「……」
「いつのまにか信じちゃってるんだよねえ」

眼を細めて微笑った。

「もし、逢えるとしたら、青野くんはどうする?」
「……」
「私はね」

紡ぎはじめる唯。

「どうでもいい話、なんでもないこと、いっぱい話して。ユタカの話もいっぱい聴いて」
「うん」
「で、今、どうしても伝えたいことがあって。その話を聴いてほしい」
「……逢いに行けばいい」

秀樹の呟きに、唯の表情が怪訝に曇る。
唯の表情に反して、秀樹の顔は明るい。
この昂揚は、ずっと忘れていた感情。
イズブチとともに……。

「捜そう、ウサギのバイクを」

    ◇◇◇

唯の表情に浮かぶのは、微妙な躊躇の笑顔。
戸惑いは、手に取るように伝わってくる。

「でも……」
「違うちがう。なにも」

秀樹は軽く掌をふり、

「幽霊を捜す訳じゃない」

唖然とした唯に、

「たとえば」

秀樹はひと呼吸おいた。

「目撃者が複数人。証言は共通している」
「うん」
「これは、目撃情報だ。雲をつかむような怪談ではない」
「でも……」
「イズブチかどうかは置いておいて。きっとウサギのバイクは現実にあるんだよ」
「……え?」
「さっきも言ったけど、このハナシはよくある怪談とは少し違う。どうもこの噂は現実的なんだ」

秀樹は言い放った。

「きっと、ウサギのバイクは実在して、今も動いている。ごく、近くで」

デタラメだ。
言い出した秀樹でもそう思う。
と、しても。
たとえ思いつきに過ぎなくても。
ずっと停滞したまま、なにもしないよりは遥かにいい。

「でも、どうやって捜すの?」

唯は尋ねる。
秀樹のデタラメに乗った瞳の輝き。

「問題はそこだ」

秀樹は虚空をみつめ、

「ウサギのバイクには、この辺に現れる理由がある。でも、例えば通勤や通学ほどの頻度ではない……」
「やっぱり、雲をつかむような話だね」

失望を隠さずに嘆息した唯は、思いついたように口にした。

「ね、例えば、バイクだから利用する場所は?」
「え?」
「バイクなら、ガソリンスタンドでしょ?」
「……バイク用品店、リペアもあるか」
「でしょ?」

確かに国道沿いには、乗り物にまつわる店舗が点在している。
ガソリンスタンドだけでもかなりの数がある。
地図アプリを起動させる秀樹の横で、

「じゃあ、聞き込みだ!」

と、唯はどこかへ走り出そうとする。
その腕を素早く取った秀樹は、

「あいかわらすだな」

きょとんとした唯に、

「それは無理。まず、この国道沿いだけでもガソリンスタンドはどれだけある?」
「……あ」
「もうひとつ。どれだけの客が来ると思う? いちいち覚えてはいられないだろう?」

秀樹の言葉に、唯は嘆息した。

「でも、その視点は悪くないかも」

たった今、思いついたということは伏せて、秀樹は慎重に話し始めた。

    ◇◇◇

「公共施設?」

唯は訊き返した。

「市役所、税務署、郵便局…… 警察に病院もありか」
「図書館とか、イベントホールとか?」

それぞれの携帯を覗き込んでの会話。

「でも、なんで?」
「バイクだから寄る場所じゃなくて、そもそもここいらに来る理由があるんじゃないかって」
「?」

困惑の表情を浮かべた唯に、秀樹は微笑いかける。

「バイクを主体にした視線は見誤っている。俺らはウサギのバイクに乗った奴を捜さないといけないんだ」
「……あ!」

唯の表情が晴れた。
その表情に秀樹も頷きながら、

「その上で。ここいらに来ざるを得ない理由は?」
「だから、定期的な利用施設……」

首を傾げた唯。

「でも、なんで他から来てるって……?」
「ウサギのバイクの拠点がこの辺だったら、噂がたつより、もっと目撃されている可能性が高い。知ってるヤツならすぐに見分けがつくだろ?」
「そうか……」
「目撃例が限られてるってことは」
「よそから来てる、か」
「ここいらは繁華街のような盛り場でもない。だから、定期的に来ないといけない理由も限られてくる」
「なにかの届出とか、返却とか」

疑問が解けるたびに、唯の表情も明るくなってゆく。

「ここに、バイクが出現する時間を加味してみる。これで捜す場所も限られるはずだ」

もうすぐ。
夜が訪れる。
残暑の熱は落ち着きを取り戻し、溢れたヒトが去って褪めてゆくだけだろう。
――まだだ。
陽が落ちる前に。熱が去ってゆく前に。

「さして多くはないな」

図書館、特別出張所、ジム。
緊急搬送を受け入れるような病院。
携帯を覗きこみ、指で地図を追う。

「とはいえ、今日はもう時間がない」

怪訝な表情を浮かべた唯は、見る間に不満顔にかわる。

「私、独りでも捜すよ」
「……言うと思ったよ。二手に分かれよう」

施設が閉館する時間はシビアだ。
ただ最近では、四六時中返却に対応する本の受付ポストや、住民票などの書類の受け渡しを随時行っているサービスもあって、一概に時間が重要ともいえない。

「でも、そこを考えたらキリがない」

秀樹は、

「いわゆる営業時間で考えた方が、こちらもメドがつけ易い」
「じゃ、先に閉館しそうな処から優先的に捜すね」
「なにかあったら連絡する。あとは、捜索時間を決めよう」
「?」
「目撃情報の時間を過ぎたら、当然ながら遭遇する可能性はずっと低くなる。その時はいっそ諦めて、次の機会に持ち越すしかない」
「そうか。そうだね」

手早く連絡先を確認しあう。

「時間は、そうだな……。今から一九時までにしよう」
「青野くん」

唯の言葉に、秀樹は視線をあげた。

「ありがとう」

秀樹の先で、唯は柔らかく微笑った。

    ◇◇◇

いつしか、秀樹は小走りになっていた。
捜す施設は多くはないが、時間を加味すると、効率的な順番で巡るわけにはいかない。
回る距離は倍加する。
堕ちゆく夕陽、灯りはじめる街の明かり。
暗くなり、明かりが増えるたび、焦燥が脅迫する。
閉局した出張所の脇を素通りし、まばらに停まる図書館の駐輪所を確かめて。
夏の残り香のような暑さは、まだ芯を残している。
流れる汗が瞳を焼き、痛みに霞む視界を拭い。

「……あるわけがない」

秀樹は、呟いてしまった。
初めからデタラメ、当て推量だけで始めた探索。
意味などない。ただの、徒労。
……でも。
この両脚は止まらない。
この昂揚はどこからきて、なぜ急きたてるのか。
秀樹は、小さく息を漏らして、笑いだした。
――どうでもいい。
自分が望むように、ただ急いでいるだけだ。
軽く足がもつれた。
秀樹は両手を膝で支え、前のめり気味に呼吸を整えた。
アスファルトに落ちて染みた自分の汗の痕。
秀樹は可笑しくなった。
声にならない笑いのあと、少しだけ落ち着いた呼吸を確かめた。
秀樹は、歩きだした。
矢先、秀樹の瞳に飛び込んできた風景の片隅。
街灯に照りかえる銀緑のタンク。
一瞬、なにもかも忘れた。

    ◇◇◇

秀樹を呼び出したイズブチが、ファミレスの駐車場で見せた真新しいバイク。
キックスターターからエンジンに火を点す。
不自然な脈拍のように、エンジン音が響きはじめる。

「エンジンは、吸気、圧縮、燃焼、排気の一連でエネルギーを得る内燃機関で、このストローク効率とエネルギー効率は比例する」

顔を上げたイズブチは秀樹に視線を送り、

「内燃機関の技術革新で、充分すぎる速度を得ることができだけど、同時に障害もあった」
「障害?」

至近距離でのエンジン音に圧倒されたまま、秀樹はイズブチを窺った。

「振動と騒音だよ」

イズブチは秀樹に、

「排気音はひどくうるさいものだったらしいし、停車しているだけで位置が変わるくらい動いたらしいよ、振動で」
「へえ」
「それだって、今じゃ皆無だろう。快適に運転できるんだ」

自分の言葉に大きく頷いたイズブチは、

「それでもね」

短く息を継いで、呟いた。

「あえて残した過去への憧憬みたいなものに、どうしようもなく惹かれるんだ」

宙を望むイズブチを見つめた秀樹。
やがて、イズブチは、

「排気音がさ、鼓動みたいに聴こえるだろ?」

屈託のない笑顔をこぼした。
秀樹がタンクに掌を触れると、細やかな振動が伝わってきた。

「……これは?」

ふとタンクの側面を見た秀樹の問いに、渋面のイズブチ。
曇りのないメタリックグリーンに、ほとんど乱暴に貼られたステッカー。
ニンジンをひと齧り、憎々しげに笑いかけるルーニー・テューンズのキャラクター。
唯の悪戯。
渋い顔が、溜め息ひとつで苦笑に変わる。
柔らかい眼差しで眺めるイズブチの顔――。

    ◇◇◇

「どこ?」

息せき切って現れた唯の第一声。

「……あれ」

視線で伝えた先、ひっそりと佇む車体。
街灯も届かない、住宅街の一角。
一層大きく開かれた唯の瞳に、複雑な瞬き。
薄く届く灯りに大きな影を落とし、馴染んだままのウサギのバイク。

「実際なんてこんなもんか」

含み笑いの秀樹のよこで、

「ホントにあった……」

唯はぼんやりと呟いた。
呟いた語尾が、掠れて消えた。

「……だな」

秀樹は唯の言葉を、噛みしめた。
薄暗がりのなか、唯の声が詰まる。
小刻みに波打ちはじめる唯の肩に、秀樹は静かに掌をおいた。

    ◇◇◇

「……痛い!」

帳の落ちた帰り道。
憤りをみせる唯の歩調。

「あれが、ウサギの正体か」
「あんなのはユタカじゃない!」

独りごちた秀樹の言葉に、即座に食ってかかる唯。
二人の前に現れた、ウサギのバイクの持ち主は。
ライダースにシルバーアクセ。
ソフトモヒカンにピアスの顔は、当然ながらイズブチではなかった。
唯は一目見て、明らかに落胆し……。
結果は、始めから承知の上だったはずなのに。
秀樹も、覚えた感情の正体に驚いていた。
何処かで、何時しか抱いていた、期待。
持て余した感情に戸惑う秀樹の先で。
イズブチとは似ても似つかない男は、バイクに跨り、見送りに出た女性とキスをした。

「……女性がらみだったか」

秀樹の含み笑いに、唯は言葉を重ねる。

「青野くんがもっともらしいこと並べるから! 公共施設なんて、全然関係ないじゃない!」
「乗っかったのは唯の方だろ? 俺は自分の考えを言っただけで」
「確信ぶった言い方してさ。だいたいさ、ユタカがあんなにブサイ――」
「……いい。言わなくて」

二人は大声で笑った。
最初に気付いたのは唯だった。

「だって、タンクのウサギ、直に描いてあるからさ」

かつて唯がその手で貼りつけた、ルーニー・テューンズの悪戯。

「で、まじまじと見てみたら」
「トゥーンタウンのキャラだった!」

もう失望感はない。
といって、諦観に変わった訳でもない。
大きく笑いだした唯、秀樹もつられて笑い始める刹那。
秀樹の裡に産まれたものが、ゆっくりと確実に、ごろりと転がって嵌まるのを実感した。

「噂なんてこんなもんか」
「御託はもういいです。青野くんのことはもう信用しないから」

拗ねる唯に、苦笑いの秀樹。

「……でも、久しぶりだね」
「え?」
「イズブチくんの悪戯の後みたい」

初秋の風が、虫たちの音色を不意に止めた。
星の瞬く空。

「今度、ちゃんと」

秀樹の言葉に、唯は顔をあげた。

「墓参りに行こう」
「……だね」

唯は、小さく頷いた。

    ◇◇◇

河川敷はすっかり影に沈み、ときおり黒い流れが鈍く反射した。
強くなった風に、髪がはためく。
肩を並べ眺める、河川向こうの無数の窓明かり。

「私ね、結婚するの」

イズブチに届けたかった、唯の告白。
どうしても伝えたかった言葉。

「関西で知り合ってね。あっちに戻ったら」
「……そうか」

秀樹は深く頷き、やがて言った。

「良かったね、おめでとう」
「青野くんは? これからどうする?」

影絵のような鉄橋を仰ぎ見て、返答に一呼吸。

「……大丈夫」

秀樹は笑った。
二人は土手の舗道を後にした。
お互いの日常がある方向へ。

「じゃ」

別れた唯の背中。
小さく強い、彼女の後ろ姿を見送る。
不意に、唯は振り返った。

「また、逢おうね。絶対!」

唯の姿が闇に消えてゆくさまを、秀樹はずっと見守り続けた。

    ◇◇◇

寒空は、透き通るような青さ。
視線を戻すと、届いたばかりの新車の姿。
タンデムには、チューブで固定した荷物。
細身の車体、サイドバッグの物々しさ。
深緑のタンクは、秀樹の表情を映し出す。
晴れやかな表情。
貼り付けたステッカーは、捜して求めたルーニー・テューンズ。
全ての準備は終わっている。
B-3ジャケットを纏い、ヘルメットを被り。
仕事を棄て、関係を棄て、しがらみを棄てて。
全てを放棄した秀樹は、あるいは誤った選択をしているのかも知れない。
ただ。
秀樹は、確かめたくなった。
イズブチの見たかった風景、ウサギに叶わなかった景色を。
あの夜、秀樹の裡に転がり落ちた、なにかを。
ただ、見てみたいという、欲求。
ふと顔をあげる。
イズブチが背中で笑い始めながら、確固たる意志をはらんで秀樹にいった。
――俺たちは、どこでも行ける。なんでもできる。
自分が認めない限り、限界はない。

「……解ってる、イズブチ」

秀樹は、独りで呟いた。
ゴーグルをあてがい、風の吹く方に顔を向ける。
眼を細め、冷たさの入り混じった風を感じてみる。

「西にでも行ってみるか?」

語りかけ、秀樹は笑い。
スターターを蹴りおとした。
動きだした内燃機関、吸排気をはじめたSOHCの不規則なバルブ駆動。
ウサギのバイクは再び、鼓動を刻みはじめた。