大田区幻想奇譚 SAMPLE

『大田区幻想奇譚』サンプルを掲載します。収録作「空港にて」を一部掲載しています。

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……陸は顔を上げた。
傍らの優希は、パイプでできた腰掛けにもたれながら、中央の集塵機に煙草をもみ消していた。
「あ、れ?」
辺りを見回した陸。
五人も入れば一杯の狭い空間。
中央には煙草の灰を集める集塵機と、その上には大きな換気扇。
ガラス張りの壁の向こうには、並列に並べられたベンチが見えた。
「ここは…?」
呟いた陸の声に、優希は顔を向けた。
不意に、陸の掌から滑り落ちたもの。
乾いた金属音が小さく響き。
慌てて拾い上げたジッポが、中指のシルバーリングにカチリと当たる。
途端に妙な感慨に襲われて、陸は顔を上げた。
ガラスの壁面に写った自分の姿。
膝の擦れ落ちたリーバイスにショットのライダース。
一歩ごとに、ウォレットチェーンと鍵束がかち合う金属音。
鉄板入りのブーツの心地よい重さ。陸はまじまじとガラスに映った自分の姿を見た。
「どうかした?」
言葉じりに鋭さの余韻を残し、優希は言葉にした。
「いや……」
怪訝に眉をひそめた優希。
懐を探ると、潰れた紙パッケージの中に曲がったマルボロが一本。
陸は、おぼつかない手つきで火を灯し、最期の煙草を咥えた。
オイルの香りが絡み合い、霧散した。
「一瞬、どこにいるのか忘れてた」
「何それ」
吐き出した煙は陸の周りで少し揺れ、その後には頭上の換気扇に、勢いよく吸い込まれて行く。
「……なんだかまるで、ずっと長いあいだ吸ってなかった感じだ」
「大げさな」
馴れた手つきで、煙草を咥える優希に、陸は火を差し出す。
彼女が煙草に火をつけるとき、咥えたまま細い首を伸ばす仕草。
「……しかし」
優希の一呼吸。
「ほったらかしも極みだね」
「いや、ゴメン」
不機嫌な横顔。見慣れた表情。
諍いを思い出した。
到着した空港線の終点から、向かうべきターミナルの真逆の改札を出てしまったこと。
ターミナル間にはかなりの距離があり、移動するための道筋も解りづらかったために、行きたいターミナルに辿り着くのに些少の時間がかかってしまったこと。
「別にいいけど」
「悪かったよ」
「思ってないくせに」
ざわつく気持ちを吐き出すように、陸はひとつ息をついた。
「ホントに悪かった。だからもういいだろ」
少し感情が滲む陸の言葉。
「せっかくだからさ、せめて今だけでも」
優希は、陸を見た。
「止めようよ、こういうの」
まっすぐに陸の眼を射る、優希の眼差し。
「……勝手だね」
端正な顔立ち。冷たいくらいの綺麗な表情。
「気持ちは収まらないんだけど」
「ホントに悪かったと思ってる」
「……何か奢って?」
「は?」
両手を腰に当て、首を傾ける優希の癖。
「着いたら、初めの一杯は奢りね」
「え?」
「あとご飯と、酒の肴も」
「解ったよ。それで手を打ってくれる?」
「仕方がないでしょ」
優希は不器用に笑顔を見せた。

「……この空港にはさ」
「え?」
ふいの言葉に、優希はきょとんと。
優希のようすに、陸は含み笑いをもらしてしまった。
「さっきさ、言ってただろ?」
憮然とした優希に、
「空港に向かう電車の中でさ」
「……ああ、あれか」
優希は、短くなった煙草をもみ消す。
「この空港にはさ」
「うん」
「空港に不似合いな施設があるって」
「施設?」
「何だか解る?」
少し虚空を望み、陸は向き直った。
優希はニヤニヤと、陸のようすを眺めていた。
「……解んない」
「もう、ちょっとは考えてよ」
「考えてもなあ」
「じゃあヒント」
腕を組んだ右手から人差し指。
「そのおかげで受験も上手くいく」
「?」
もう一度、宙を仰いだ陸。
陸の顔を眺めながら、優希は首を傾げて微笑った。
「答えは出た?」
「ーん?」
優希は瞳を細めながら、
「答えは案外つまらないよ」
優希が喫煙室の扉を開けた。
後を追って、陸も立ち上がった。

「神社!」
答えに驚く陸に、
「大げさな」
と優希。
「空港神社っていうんだって」
「ここにあんの? 建物の中に?」
優希は軽く頷きながら、
「航空安全と輸送祈願の神社なんだってさ」
「墜落事故のないように?」
「そ。飛行機が落ちない、受験にも落ちない」
優希はつまらなさそうに、頰をかく。
「行ってみようよ」
「無理」
眉をひそめた陸に、優希は笑いかけた。
「もうゲート入っちゃったでしょ」
「?」
「搭乗ゲートにはないの。あるのはゲート入る前の空港ビル」
「そうなんだ……」
「ま、行ってみたかったけどね、ネタのひとつにでも」
「慌ててゲート入らなくてもいい、って知っていればね」
「そうねえ」
と宙を仰いだ優希。
「まあ、この状況だって、そうそうある経験じゃないから」
少し灯りの落ちた照明。
搭乗口を前にしたベンチソファには、人の姿は全くない。
ガラス張りの外に広がるのは、滑走路を想像させる、暗く広がる闇。
「にしても……」
陸は辺りを見回して、
「暇だな」
「寝れば?」
優希の嫌味を、小さく微笑いながら躱す。
いつもならやり過ごせない、小さな棘みたいな感情は、今は笑えるだけの余裕で包める。
いつからだろう。
交わす言葉の端々に、いつでも苛ついた感情を纏わせるようになったのは。
少しずつ確実に。
お互いの苛立ちは、澱のように沈殿して。
「……怒ったの?」
優希の声に、陸は顔を上げた。
「いや、ぼんやりしちゃった」
「なにそれ」
「何だか、こういうの、久しぶりな気がする」
「そうね」
呟き返した優希は、ガラス越しに広がる暗い影の向こうに視線を移した。

就航先はまだ表示されない。
暗く反射した頭上のモニターには、変化はなかった。
さっきまで搭乗口にいた乗務員の姿もない。
「こりゃダメかな」
陸の言葉に
「急ぐ旅でもないし」
優希は大きく伸びをした。
華奢な身体、長い腕。
「……電車で降り口を間違えてさ」
「え?」
「どこからターミナルに向かえばいいのか解んなくてさ」
「ああ」
陸が言葉を引き継ぐ。
「時間ギリで検査場通って」
「陸のウォレットチェーンとかで金属探知機に引っかかってさ」
二人で小さい含み笑い。
「息切らして搭乗口に着いてみたら」
「行き先の天候不良で」
「飛行機、いつ飛ぶか解んないってさ!」
二人は顔を見合わせて笑った。
「あるのかね、こんなこと」
「あるんじゃない。今こうなってんだもん」
スタッフの話では。
天候の回復を待ってフライトするが、この時間では、よしんば天候が回復しても欠航のおそれもある。
いつになるか解らないフライトを待つか、または近隣の宿泊施設で一泊するか。
もちろん飛ぶとなったら連絡するし、次の日に臨時便で行くこともできる。
「そのお金、ぜんぶ航空会社持ちだって知っていたら」
「ホテルで伸び伸びしてたかもね」
「ホント、ついてない一日だ」
溜め息をついて見せる陸。
「ついてないってことは、ついてるってことと紙一重でさ」
「え?」
ベンチで片脚を抱えて膝に顎を乗せ。
遠い眼をした優希は、
「どっちにしたって、あまりないことなんでしょ?」
「まあ、うん」
「捉え方だけで、裏返ったように変わるんだ、感情なんてさ」
優希の呟きが、冷たく澄んだ響きを伴って陸に届く。
裡のざわめきを、陸ははっきりと自覚した。
陸が言葉を発しようとしたそのとき、
「今が楽しく感じられるなら、それだけでもう、ついてるんだよ」
優希は、陸を制すように笑顔を見せた。

始まりは、出会いは。
二人で過ごす時間が、場所が。
二人で居られる事実だけが喜びで。
いつからか、事実は当たり前になって、喜びは少しずつ失われていった。
いつからだろう。
何度も繰り返した問いに、答えは見つけられず。
問いを繰り返すたび、何かを少しづつ失ってゆく感覚を覚え。
「……二人がさ」
傍らの優希は、陸の言葉に顔を向ける。
「顔を合わせるたびに、諍いが絶えなくなって」
陸の呟きに、優希は小さい溜め息をつく。
「そうね」
「思い出せないような、どうでもいい喧嘩を積み重ねて毎日が過ぎて」
「うん」
「二人でいることがあんなに嬉しいことだったのに」
「今は、嬉しくない?」
優希の澄んだ瞳は、まっすぐに陸を見つめている。
「……解らない」
見下ろした掌を重ねる。
沈黙。
「……ホント、勝手だね」
掌を組んで、伸びをした優希。
「でも笑える。まだ」
独り言のように呟く陸に、優希は、
「かっちり嵌まっているうちは、大丈夫なんだよ。きっと」
顔をあげた陸は、柔らかな微笑みを浮かべた優希を見た。
「どっかで削れたり、欠けたりして、上手く嵌まらなくなって」
「それで……」
「お互いがお互いを、駄目にしてしまうんじゃない?」
軽く頷いて、優希はおどけた。
「祝福に満ちていたときは、こうして過去になっていくんだよ。きっと」
端正な優希の横顔は凛として、まっすぐに。
うんざりしていた毎日と、そうなる前の満ち足りた生活。
捨ててしまいたい毎日と、かけがえののない感情。
「まだ間に合うのかな」
陸が呟く。
「捉え方が変わって、見ていたものが姿を変えて」
「うん」
「そうやって変わっていけるなら」
まっすぐな優希の眼差し。懐かしいくらいに純粋な瞳。
「変われるなら?」
「まだ、笑える俺たちは――」
――また、一緒にやり直せる。

陸は息をのんだ。
……かつて、同じ言葉を。
陸は、優希の姿を凝視した。
……あのとき。
その長い手足を持て余すように。
窮屈そうに固く丸まりながら。
……同じ言葉を、彼女に投げかけたのではなかったか。

……(続く)