大田区幻想奇譚 【試し読み】

収録作の短編「空港にて」を全文掲載します。
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   ◇◇◇

……陸は顔を上げた。
傍らの優希は、パイプでできた腰掛けにもたれながら、中央の集塵機に煙草をもみ消していた。

「あ、れ?」

辺りを見回した陸。
五人も入れば一杯の狭い空間。
中央には煙草の灰を集める集塵機と、その上には大きな換気扇。
ガラス張りの壁の向こうには、並列に並べられたベンチが見えた。

「ここは…?」

呟いた陸の声に、優希は顔を向けた。
不意に、陸の掌から滑り落ちたもの。
乾いた金属音が小さく響き。
慌てて拾い上げたジッポが、中指のシルバーリングにカチリと当たる。
途端に妙な感慨に襲われて、陸は顔を上げた。
ガラスの壁面に写った自分の姿。
膝の擦れ落ちたリーバイスにショットのライダース。
一歩ごとに、ウォレットチェーンと鍵束がかち合う金属音。
鉄板入りのブーツの心地よい重さ。陸はまじまじとガラスに映った自分の姿を見た。

「どうかした?」

言葉じりに鋭さの余韻を残し、優希は言葉にした。

「いや……」

怪訝に眉をひそめた優希。
懐を探ると、潰れた紙パッケージの中に曲がったマルボロが一本。
陸は、おぼつかない手つきで火を灯し、最期の煙草を咥えた。
オイルの香りが絡み合い、霧散した。

「一瞬、どこにいるのか忘れてた」
「何それ」

吐き出した煙は陸の周りで少し揺れ、その後には頭上の換気扇に、勢いよく吸い込まれて行く。

「……なんだかまるで、ずっと長いあいだ吸ってなかった感じだ」
「大げさな」

馴れた手つきで、煙草を咥える優希に、陸は火を差し出す。
彼女が煙草に火をつけるとき、咥えたまま細い首を伸ばす仕草。

「……しかし」

優希の一呼吸。

「ほったらかしも極みだね」
「いや、ゴメン」

不機嫌な横顔。見慣れた表情。
諍いを思い出した。
到着した空港線の終点から、向かうべきターミナルの真逆の改札を出てしまったこと。
ターミナル間にはかなりの距離があり、移動するための道筋も解りづらかったために、行きたいターミナルに辿り着くのに些少の時間がかかってしまったこと。

「別にいいけど」
「悪かったよ」
「思ってないくせに」

ざわつく気持ちを吐き出すように、陸はひとつ息をついた。

「ホントに悪かった。だからもういいだろ」

少し感情が滲む陸の言葉。

「せっかくだからさ、せめて今だけでも」

優希は、陸を見た。

「止めようよ、こういうの」

まっすぐに陸の眼を射る、優希の眼差し。

「……勝手だね」

端正な顔立ち。冷たいくらいの綺麗な表情。

「気持ちは収まらないんだけど」
「ホントに悪かったと思ってる」
「……何か奢って?」
「は?」

両手を腰に当て、首を傾ける優希の癖。

「着いたら、初めの一杯は奢りね」
「え?」
「あとご飯と、酒の肴も」
「解ったよ。それで手を打ってくれる?」
「仕方がないでしょ」

優希は不器用に笑顔を見せた。

   ◇◇◇

「……この空港にはさ」
「え?」

ふいの言葉に、優希はきょとんと。
優希のようすに、陸は含み笑いをもらしてしまった。

「さっきさ、言ってただろ?」

憮然とした優希に、

「空港に向かう電車の中でさ」
「……ああ、あれか」

優希は、短くなった煙草をもみ消す。

「この空港にはさ」
「うん」
「空港に不似合いな施設があるって」
「施設?」
「何だか解る?」

少し虚空を望み、陸は向き直った。
優希はニヤニヤと、陸のようすを眺めていた。

「……解んない」
「もう、ちょっとは考えてよ」
「考えてもなあ」
「じゃあヒント」

腕を組んだ右手から人差し指。

「そのおかげで受験も上手くいく」
「?」

もう一度、宙を仰いだ陸。
陸の顔を眺めながら、優希は首を傾げて微笑った。

「答えは出た?」
「ーん?」

優希は瞳を細めながら、

「答えは案外つまらないよ」

優希が喫煙室の扉を開けた。
後を追って、陸も立ち上がった。

   ◇◇◇

「神社!」

答えに驚く陸に、

「大げさな」

と優希。

「空港神社っていうんだって」
「ここにあんの? 建物の中に?」

優希は軽く頷きながら、

「航空安全と輸送祈願の神社なんだってさ」
「墜落事故のないように?」
「そ。飛行機が落ちない、受験にも落ちない」

優希はつまらなさそうに、頰をかく。

「行ってみようよ」
「無理」

眉をひそめた陸に、優希は笑いかけた。

「もうゲート入っちゃったでしょ」
「?」
「搭乗ゲートにはないの。あるのはゲート入る前の空港ビル」
「そうなんだ……」
「ま、行ってみたかったけどね、ネタのひとつにでも」
「慌ててゲート入らなくてもいい、って知っていればね」
「そうねえ」

と宙を仰いだ優希。

「まあ、この状況だって、そうそうある経験じゃないから」

少し灯りの落ちた照明。
搭乗口を前にしたベンチソファには、人の姿は全くない。
ガラス張りの外に広がるのは、滑走路を想像させる、暗く広がる闇。

「にしても……」

陸は辺りを見回して、

「暇だな」
「寝れば?」

優希の嫌味を、小さく微笑いながら躱す。
いつもならやり過ごせない、小さな棘みたいな感情は、今は笑えるだけの余裕で包める。
いつからだろう。
交わす言葉の端々に、いつでも苛ついた感情を纏わせるようになったのは。
少しずつ確実に。
お互いの苛立ちは、澱のように沈殿して。

「……怒ったの?」

優希の声に、陸は顔を上げた。

「いや、ぼんやりしちゃった」
「なにそれ」
「何だか、こういうの、久しぶりな気がする」
「そうね」

呟き返した優希は、ガラス越しに広がる暗い影の向こうに視線を移した。

   ◇◇◇

就航先はまだ表示されない。
暗く反射した頭上のモニターには、変化はなかった。
さっきまで搭乗口にいた乗務員の姿もない。

「こりゃダメかな」

陸の言葉に

「急ぐ旅でもないし」

優希は大きく伸びをした。
華奢な身体、長い腕。

「……電車で降り口を間違えてさ」
「え?」
「どこからターミナルに向かえばいいのか解んなくてさ」
「ああ」

陸が言葉を引き継ぐ。

「時間ギリで検査場通って」
「陸のウォレットチェーンとかで金属探知機に引っかかってさ」

二人で小さい含み笑い。

「息切らして搭乗口に着いてみたら」
「行き先の天候不良で」
「飛行機、いつ飛ぶか解んないってさ!」

二人は顔を見合わせて笑った。

「あるのかね、こんなこと」
「あるんじゃない。今こうなってんだもん」

スタッフの話では。
天候の回復を待ってフライトするが、この時間では、よしんば天候が回復しても欠航のおそれもある。
いつになるか解らないフライトを待つか、または近隣の宿泊施設で一泊するか。
もちろん飛ぶとなったら連絡するし、次の日に臨時便で行くこともできる。

「そのお金、ぜんぶ航空会社持ちだって知っていたら」
「ホテルで伸び伸びしてたかもね」
「ホント、ついてない一日だ」

溜め息をついて見せる陸。

「ついてないってことは、ついてるってことと紙一重でさ」
「え?」

ベンチで片脚を抱えて膝に顎を乗せ。
遠い眼をした優希は、

「どっちにしたって、あまりないことなんでしょ?」
「まあ、うん」
「捉え方だけで、裏返ったように変わるんだ、感情なんてさ」

優希の呟きが、冷たく澄んだ響きを伴って陸に届く。
裡のざわめきを、陸ははっきりと自覚した。
陸が言葉を発しようとしたそのとき、

「今が楽しく感じられるなら、それだけでもう、ついてるんだよ」

優希は、陸を制すように笑顔を見せた。

   ◇◇◇

始まりは、出会いは。
二人で過ごす時間が、場所が。
二人で居られる事実だけが喜びで。
いつからか、事実は当たり前になって、喜びは少しずつ失われていった。
いつからだろう。
何度も繰り返した問いに、答えは見つけられず。
問いを繰り返すたび、何かを少しづつ失ってゆく感覚を覚え。

「……二人がさ」

傍らの優希は、陸の言葉に顔を向ける。

「顔を合わせるたびに、諍いが絶えなくなって」

陸の呟きに、優希は小さい溜め息をつく。

「そうね」
「思い出せないような、どうでもいい喧嘩を積み重ねて毎日が過ぎて」
「うん」
「二人でいることがあんなに嬉しいことだったのに」
「今は、嬉しくない?」

優希の澄んだ瞳は、まっすぐに陸を見つめている。

「……解らない」

見下ろした掌を重ねる。
沈黙。

「……ホント、勝手だね」

掌を組んで、伸びをした優希。

「でも笑える。まだ」

独り言のように呟く陸に、優希は、

「かっちり嵌まっているうちは、大丈夫なんだよ。きっと」

顔をあげた陸は、柔らかな微笑みを浮かべた優希を見た。

「どっかで削れたり、欠けたりして、上手く嵌まらなくなって」
「それで……」
「お互いがお互いを、駄目にしてしまうんじゃない?」

軽く頷いて、優希はおどけた。

「祝福に満ちていたときは、こうして過去になっていくんだよ。きっと」

端正な優希の横顔は凛として、まっすぐに。
うんざりしていた毎日と、そうなる前の満ち足りた生活。
捨ててしまいたい毎日と、かけがえのない感情。

「まだ間に合うのかな」

陸が呟く。

「捉え方が変わって、見ていたものが姿を変えて」
「うん」
「そうやって変わっていけるなら」

まっすぐな優希の眼差し。懐かしいくらいに純粋な瞳。

「変われるなら?」
「まだ、笑える俺たちは――」

――また、一緒にやり直せる。

   ◇◇◇

陸は息をのんだ。
……かつて、同じ言葉を。
陸は、優希の姿を凝視した。
……あのとき。
その長い手足を持て余すように。
窮屈そうに固く丸まりながら。
……同じ言葉を、彼女に投げかけたのではなかったか。
陸は、反射的に立ち上がっていた。
怪訝な表情を浮かべた優希は、陸を見上げた。

「なんか……」

……何かが、おかしい。
滲み出す、違和感。
陸は自分の両手を見た。
ざらついたデニムに触れた。
無垢な優希の顔を見た。

   —–

「……好きだよ、陸」

優希が微笑い、静かに眼を伏せた。

「でも、無理」

二人の部屋。
割れたマグカップ。
テーブルの一角を彩る夕陽の赤。

「陸といた時間は楽しかった」
「……だから」
「でもそれ以上に」

再び顔を上げた優希の瞳は、潤んで夕陽の赤を揺らした。

「もう、疲れちゃった。毎日に」

力なく優希は微笑んだ。
言葉を失った陸を、まっすぐにその瞳に映し、

「このままだと、きっとホントに」

言葉を詰まらせた優希。
陸は息を呑み、言葉の行く末を祈った。

「陸を、嫌いになる」

   —–

不思議そうに見上げた優希の瞳。
力なく座り込んだ陸。

「俺は……」

その両手で、ゆっくりと顔を覆った。
起きたこと。過ぎたこと。

「いったい……」

一緒に軌跡を歩むことのなかった、この先の記憶。
眼の前にある、無垢の存在。

「……何が、起きている?」

   —–

別離の朝。
もう戻らない部屋の鍵をかける。
廊下に響いて消えた、シリンダーの乾いた音。
朝の光の中、二人はどちらともなく掌を差し出した。

「じゃあ、さよなら」
「さよなら」

最後の温もりに、後ろ髪をひかれるおもいを重ねて。
優希の姿が見えなくなるまで、陸は立ち尽くし。
朝陽の白い風景が、滲んでぼやけた。
陸に残ったものは、折れたマルボロ一本。
ふと、煙草を止めようと思った。

   —–

傍らの優希は、じっと陸を見つめていた。
暗く落ちた照明。
低い天井。

「俺は……」

優希が少し傾けた頭。
白く細い、綺麗な首筋。

「君は……」

陸は、自分の震える声を聞いた。
どこか遠くで響いて聞こえる錯覚。

「此処は、何処だ……?」

   ◇◇◇

優希は、緩やかに微笑った。
その長い腕を伸ばし、ゆっくりと陸の頰に触れた。
冷たい掌。
不意に、陸の感じた違和感は、確信に変わり。
陸は立ち上がった。
もつれる足、重い身体。
ただ黒を映し出すガラスに駆け寄る。
少しくたびれたグレーのスーツ。
年季の入ったトレンチ。
痩せ細った身体。
節くれだった掌。
闇が映す、皺を刻んだ見慣れた姿を、まじまじと見た。

「思いだした?」

立ち尽くした陸の背後、優しい声。
振り返った陸は、背中を丸めて座る優希を見た。

「君は……」

陸は絶句した。
立ち上がった優希は、ゆっくりと陸の傍に寄り添い、近づいた。

「そうか……」

陸は、理解した。
そして。
優希に向き直って小さく笑った。
優希も応えるように、微笑み返した。

   ◇◇◇

深く腰掛けながら、天井を見上げる。
優希は傍らで、

「ありがとね」
「え?」
「約束」
「……約束?」

優希は小さく頷いて、

「しばらく好きなヒト、作らなかったでしょ」
「ああ」

笑い出しながら、陸は、

「巡り合わせがなかっただけだよ」

眼を伏せながら、優希は、

「でも、巡り合わせはあったんでしょ」
「そうだね」

優希と別離の時に、約束したこと。
涙が頬を伝って落ちて。
――しばらくは好きなヒト作らないで。
頰の涙を乱暴に拭い。
……でも必ず、好きなヒトを作って。
凛とした瞳、うっすらと赤い瞼。
……幸せになって。
見上げた液晶が流す、結婚式の映像。これから長い時間を共に過ごすはずの、よく知った二人。

「月並みだけどね」
「ん?」
「失くしてから気づくものなんだよ」

陸は、眼を細め、

「受けた愛情の深さ……」

小さく含み笑い、小刻みに首を振った。

「違うな。勝手に押し付けた、大きな感情かな」
「単純に、嵌らなくなってしまっただけだよ、お互い」

優希はゆっくりと呟いた。

「ただそれだけ」
「……そうだね」
「それに」

優希は陸に向き直りながら、

「こんな想いは、きっと誰もが感じることでしょ?」
「まあ」
「別に想い入れることもない」
「……でも」

ほぼ白髪になった頭を、軽く掻きむしりながら、陸は言った。

「わたしにとっては、特別なことだったんだよ」

小さな溜め息で、優希は含み笑いを漏らした。

「……ありがと」
「妻や子供への不義でもないがね」

顎に手を遣り、宙を見る。
産まれたばかりの赤児が、その母の胸で小さく泣き叫ぶ。
映像はときどきぼやけたり、揺れたりしていた。

「ふとした拍子に思い出すことも、たびたびあったよ」

陸の呟きと、真っ直ぐな優希の眼差し。

「声も、匂いも」

不意に咳き込んだ陸。
優希が支えるように手を回す。

「……癖も、過ごした日々も」

雑音のような肺の音。
ザラザラとした呼吸を整えながら、陸は言葉を紡ぎだす。

「遂には、君の顔すら忘れてしまっても」

陸の背中に手をやった優希が、顔を伏せながら軽く鼻をすすった。

「君と居たことは、思い出せたんた」

   ◇◇◇

「勝手だね」

鼻頭を赤くした優希が眼をこする。

「いいんだよ」

陸は、しわがれた掌をかざし、

「勝手に生きて、勝手に逝く」

深い溜め息を吐いた。

「誰でも辿る道じゃないか」
「……そうかもね」

陸は眼を伏せ、静かに笑った。
搭乗口の液晶が点灯し、就航先を映し始めた。

「出逢うことの意味を、大切を」
「うん」
「想うことができる、幸せ」

首を傾けながら、優希は微笑んだ。

「しかし」

モニターが流すセピア色の映像は、どれもが陸の記憶の断片。

「長かったけど、あっという間だった気もするな」
「……そうね」
「わたしは何かを成したのだろうか」
「きっと」

言葉を詰まらせた優希。

「残せたよ」

二人は見つめあった。

「……そうだな」

陸はゆっくりと立ち上がった。
陸は、噛みしめるように言葉を紡ぐ。

「楽しかった、幸せだった」
「そうだね」
「ただ、妻には最後まで苦労かけてしまった」
「……」
「彼女にはしっかりと、感謝と謝罪できなかったのが、心残りだ」
「……いい人に逢えたね」

大きく頷いた陸は、歩き出す。
隣に並んだ優希のシャープな身体。
ふと。
優希に向かって、陸は尋ねてみた。

「これは、わたしが見ている最後の夢なんてことはないだろうか?」

眼を丸くした優希は、声に出して短く笑うと陸をじっと見た。その後に、

「好きだよ、陸」

優希は陸の掌をとった。
いつしか握られていたチケット。
二人は、搭乗口に向かい。
そのゲートをくぐり抜けた。