『賢 治』【試し読み】

収録作の1章を掲載します。
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  #1

つぐみが二羽、飛び立った。
微かな羽ばたきを残し飛び去った姿は、散りぢりに透ける明るい雲間で小さな影のようになり、やがて見えなくなった。
小鳥を不意におびやかしたのは。
翻った義姉のワンピース。
マンションの屋上から、拓けた朝焼けの空。
義姉は、跳んだ。
時間が停滞した錯覚の中で。
ぽかんと無垢な表情の義姉と眼があった。
手を伸ばしてみても。
義姉には届かない。
不意に射る閃光に眼を細め。
遠くなる義姉の姿が明るく照らし出された。
一瞬の明滅。
義姉は、微笑ったようだった。
しなやかに伸びた長い指が、白く輝いた。
義姉の身体は、やがて建物の影に隠れ。
朝の澄んだ空気のなかで、紙を握りつぶしたような乾いた音が響いて消えた。
理由もなく、義姉は、義姉の話していた列車に乗ることができたのだと確信した。

    一

「宮沢ッ!」

頭上の一喝に、賢治は眼を開けた。

「お前、何をしていた?」
「え?」

深い皺を眉間にたたえた、佐々木の姿。
頭を上げた賢治はあたりを見渡した。
カーテンを揺らす心地よい陽だまり。
鈍く光る黒板。
賢治と数学教師の佐々木が対峙した成り行きを、息を殺して見守る生徒たちの表情。
佐々木のこめかみが痙攣していた。

「もう一度訊くが、お前は今、何をしていた?」
「眠っていたようです」

賢治の即答に、クラスの端々から起こるさざ波。

「お休みのところ申し訳ないのだが」

窒息したように顔面を染めた、佐々木の言葉が震える。

「あの問題を解いてみてはくれないか?」

賢治は立ち上がると教科書を取り、黒板に歩き出す。
視線の端では、隣の飯野がジェスチャーを送っていた。
飯野は自分の教科書を、しきりに指差している。
軽く首を傾げながら、賢治は自分の持つ教科書をしげしげと見つめた。

『詳説 世界史B改訂版』

「――宮沢ァッ!」

佐々木の背中が爆発した。

  ◇

賢治が教員室から解放されたのは、昼休みも終わりに近づいた頃だった。

「お疲れ」

と声をかけた葛原。
掌でこたえ、賢治は席につく。

「宮沢ってさ、ホント、アレだな」

と椅子を寄せてきた富岡に、

「?」
「あの佐々木に、あの態度だろ。ある意味すげえわ」
「な。こっちがハラハラしたわ」

葛原も腕を組み、富岡に同意した。

「気をつけるよ」

と賢治。

「気をつけるって……」
「お前な、もうちょっと身の振り方考えないと」
「え?」
「お前の敵は多いってこと」

葛原はにやにやと、

「これで佐々木は確定だろ? あとはこないだの現国で……」
「枚挙にいとまなしだな」

葛原と富岡が話題に興じる。
賢治は頬杖で二人の会話に耳を傾けながら、柔らかく温まった窓の外に視線を向けた。

「でも、何気にアタマいいんだよな」
「授業なんて聴いてないのにな」

富岡はしげしげと賢治を見つめる。

「どんなチートだよ」

葛原の言葉に、

「一度見れば何となく解るし、やってみればできるから……」
「でたよ」
「またそれか」

葛原と富岡は、お互いに言葉を吐いた。

「ねえねえ」

鈴木が割って入ってきた。

「何だよ」

不機嫌を装った葛原に、鈴木は携帯を指し示す。

「これこれ、見て」
「お……。これ近所か?」

鈴木が見せたネットニュース。

「……コンビニ強盗って」

富岡もすぐに携帯を取り出し、覗き込む。
賢治に見せた画面には、商店街の喧騒にナレーションが続く。

「一人撃たれてんじゃんかよ」
「これガッコの傍じゃねえか、大丈夫かよ」
「速報らしいんだけど」
「銃持ってうろついてる輩が、その辺にいるってことか?」

お互いが自分の携帯を覗き込んでいると、午後の授業を開始するチャイムが鳴り出した。
スカートを翻し駆け込んできた飯野。

「ね、ね」

息を弾ませて、

「何かあったの?」

教員室が大変な騒ぎになっているのだという。
あらましを伝える葛原の言葉と、携帯の動画を見比べながら、飯野は青ざめた。
授業は始まっているのだが、教師が現れるようすはない。

「どうしよ……?」

不安を隠さない飯野は、

「宮沢くんは大丈夫なの?」
「え?」

賢治に、皆が顔を向ける。

「びっくりするくらい冷静じゃんか」
「いや、驚いてるよ」

賢治は続けて、

「でも、とりあえず危険はないと思う」
「は?」
「どうして?」

不安と興奮が入り交じる言葉に、賢治は淡々と返答する。

「強盗は顔を隠していたらしいし、姿を見たのも撃たれた人だけだから」

ぼんやりと窓の外に視線を移し、

「救急搬送されているから、事情聴取には少し時間がかかるだろうし、この隙に逃走するのが犯人にとって最良の選択肢だと思うよ」
「そう言ったって」

富岡が身を乗り出す。

「逃げるのはまわりが見てるんだろ? 警察だっているんだから、そりゃあ無理だろ」
「……そうだよな」

頷く葛原と鈴木。
賢治は淡々と、

「顔は不明だし、服装も上着一枚脱ぐだけでだいぶ印象が違うんじゃないかな」

賢治は富岡の瞳を見つめた。

「どっちにしても、これ以上騒ぎを大きくする必要は犯人にはないよ」
「それは……」
「立て篭もったりする方が、それこそリスクが大きいんじゃないかな」

賢治はゆっくりと、

「そう考えれば、ちょっとは気休めになるでしょ?」

口許を綻ばせた。
拍子抜けしたように、葛原と富岡は口をつぐみ、お互いに顔を見合わせた。

  ◇

結局、午後の授業はなくなった。
自宅待機として、明日からの登校に関しては連絡を待つように、と通達があったあと、生徒は帰宅となった。
葛原、富岡と改札で別れ、賢治は独りホームに立つ。
いち早く到着した対面に慌てて駆け入る二人のようすを眺め、行き始めた電車を見送った賢治は、鞄から文庫本を取り出した。
ページを開き文字を追う。

「――宮沢くん?」

不意の呼びかけに、賢治は顔を上げた。
隣席の飯野の姿。

「宮沢くんも帰りはこっち?」
「飯野さんも?」

飯野は大きく頷いて、

「帰りがおんなじ方角だって知らなかったよ」
「そうだね」

賢治のあいづちに、

「何で今まで会わなかったんだろ?」
「さあ」
「あ、わたし部活で帰りが遅いからか」

けらけらと笑いだす。

「部活?」
「そう、陸上部」

大きく頷いた飯野は、

「宮沢くんは?」
「え?」
「部活とかクラブとか」
「特に、何も」
「そうだよね」

言葉が途切れる。
そわそわと賢治のようすを窺う飯野は、意を決したように、

「何読んでるの?」
「あ!」

突然、賢治は向き直り、

「さっきはありがとう」
「?!」
「教科書違うって教えてくれて」

面食らった表情の飯野は、

「あ、うん」

と頷いたあと、小さく吹き出した。

「宮沢くんって変わってるね」
「そうかな」
「そうだよ」

と賢治に笑った。

  ◇

「引っ越してきたばっかり?」

と飯野は眼を丸くした。

「じゃ、葛原くんや富岡くんとは……」
「入学式で知り合ってからだね」
「同じ学校の出身だと思ってた」
「そう?」
「だって昔なじみみたいだよ。ホントに知り合ったばっかり?」

頷く賢治。
頭を傾けた飯野は、

「でも大変だね。前の友達とかは?」
「もともと引っ越しが多いウチだから」

賢治の言葉に、言葉を詰まらせた飯野は、

「なんか、ゴメン」

賢治は飯野を不思議そうに眺めて、

「親の転勤は飯野さんのせいじゃないよ」

と首を傾けた。

「でも、ありがとう。改めてよろしく」

飯野の瞳を見つめ、賢治は眼を細めた。
茫然とした飯野は、次にはあたふたと、

「こっちこそ、よろしく……」

と俯いた。
会話が途切れた端を繋ぐように、賢治は手許の文庫本を差し出した。

「?」
「さっきの答え。これを読んでたんだ」
「あ、そうか」

どぎまぎと返す飯野。

「……この本、知ってる」
「そう?」
「どこで読んだのかな。昔の人の本だよね」
「そんなに古くもないよ」
「――好きなの?」

問いかけに、賢治は言葉を詰まらせた。

「けっこう古い感じだからさ。繰り返し読んでるのかなあ、って」

飯野が続けた。

「……どうかな」

と賢治は、

「大事にはしているかな」
「そうなんだ」

飯野は呟き、

「今度、読んでみようっと」

と独りごちた。
賢治は手許に眼を落とし、表紙を指でなぞった。
ページが抜けそうなほど繰られた本。
変色した紙、煤けた背表紙。
軽く軋む音とともに滑り込んできた電車が、賢治と飯野の髪をはためかせた。

……(続く)