-Where do I begin- ~大田区幻想奇譚異見~ 【試し読み】

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   ◇◇◇

足跡を覗き込んでいた翡翠(ヒスイ)が、

「これは……」

と呟いた。
傍らで闇の向こうを凝視したままの錆光(セイコウ)は、翡翠の言葉に、

「漆青が戻った」

と一言だけ返した。
やがて、小さな葉擦れの音とともに姿を現したのは、先行していた漆青(シツセイ)だった。

「どうだ?」

翡翠の問いかけに、

「状況はこっちと変わりませんね」
「……」

立ち上がった翡翠は、漆青が偵察した先を仰ぐ。
錆光と漆青は、翡翠の傍らに集まると、

「これも……」
「ああ」

地面を覆い尽くす枯れ葉も、乾いた地面も。
いくらでも隠蔽できる状況にも関わらず、いたるところで踏みしだき、駆け、もみくちゃに散乱した移動の痕跡。

「隠遁どころか」
「ええ。それに、まるで規則性もありませんね」

樹木の幹に残された爪牙の跡。

「これは」

近寄った根元に、なすりつけられたように残る黒い染み。

「負傷している……?」
「どうする?」

と、錆光が翡翠に訊く。

「追跡を続けるか、やめるか」

翡翠は顔を上げ、

「やめるわけにはいかない」
「だが」
「今、追跡をやめたとて、いずれまた被害が出る」
「――移動速度はまるで遅いです。姿を隠す様子もない。すぐにでも発見できますよ」

翡翠を引き継ぎ、漆青は静かに言葉を発した。

「オレも翡翠さんに賛成です」
「追跡は今しかない」

翡翠は、真っ直ぐに錆光を捉えた。
苦々しげに顔をそむけた錆光は、

「とはいえ」

枯れ葉を蹴ちらしながら、

「相手の体躯は我らの倍」

紅葉のような足跡を一瞥した。

「体格はそのまま力の差だ」
「でも、こっちは数が多いじゃないですか」
「こちらの犠牲も必至なのだぞ」
「……待て」

翡翠の制止で、錆光と漆青は口を噤んだ。
鋭い風、葉擦れの樹々。

「唸り声……?」

虚空に視線を泳がせていた漆青が呟いた。
微かに混じる、何者かの遠吠え。
錆光が喉を鳴らし、漆青は翡翠を見やる。
宙を仰いだ翡翠は、

「雨がくる」

と呟き、闇の奥へ足を向けた。

   ◇◇◇

今から数刻まえ。
翡翠たちの住む集落が襲撃された。
翡翠たちは近隣の探索に出ていたために難を逃れたが、集落の被害は目を覆うばかりだった。
集落で帰りを待っていた、まだ幼い子供たちとその母親、負傷した若者たち。
体躯はこちらの倍以上。
無差別に襲いかかってきたという。
喘ぎあえぎ言葉を発する若者たちも、相当な深傷を負っていた。
血塗れの母親が抱き寄せていた幼児が、その胸のなかで事切れたとき、翡翠は報復を決断した。

「追跡の一択ですかね」

漆青が顔を上げた。
渋面を浮かべた錆光は、翡翠の後に続いて歩き出した。
冷たい風、湿った空気。
翡翠は、月明かりの途絶えた空を仰いだ。

「雲の流れが早い」
「これだけの痕跡でも、降られてしまえば追跡は難しくなりますからね」
「少し急ごう」

と発したのは、錆光だった。
意外な一言に漆青は、

「追跡には反対なのかと」
「今、避けたいのは痕跡の喪失だ」
「はあ」

ぽかんとした漆青を尻目に、足跡を追い始めた錆光。

「住処でも解れば、手の打ちようもある」

呟く錆光をちらりと見て、翡翠は、

「状況によっては、増援のために戻るのもありだな」
「速度を上げるなら」

漆青は表情をこわばらせ、

「敵に見つかることも考慮に入れる必要があります」
「この様子なら」

翡翠は先を見やり、

「どちらが先に見つかるかは五分だろう」
「ですかね……」
「話は終いだ」

と錆光。

「強行偵察に切り替える」

翡翠は速度を上げた。

   ◇◇◇

漆青は足を停め、地面を見つめた。

「今度はなんだ……?」
「また穴ですね」

奥に進むほど痕跡はよりはっきりと、また酷く無秩序になっていた。
漆青の懸念もむなしく、相手が警戒していないのは明白だった。

「誘導されているのか?」
「いや」

撒き散らした枯れ葉に滴る血の跡を指し、

「この深傷で、そんな余裕はなかろう」

錆光は付近を見廻した。
大小さまざまに掘られた穴、付近の岩や幹に残る衝突痕。
こびりつく血痕もはっきりと新しい。

「眼をやられている……?」
「それはどうでしょうか」

かがみ込んでいた漆青が向き直り、

「これを」

と促した。
翡翠と錆光は、指し示された場所を覗き、

「相手は雑食か」
「ええ、確実に捕食しています」

裂かれた土竜の死骸。
辺りには、栗や団栗の果皮が散乱している。

「それに」

漆青は見渡し、

「散らかり方に、少し変化が」
「そうだな」

今までとは違う。
なかに交じる、古い痕跡。

「かなり広範囲に歩き回っているが」

つぶさに観察する錆光は、少し身をかがめ、

「何だ?」

地面に伸びた帯状の痕を眼で追った。

「ひきずった痕?」
「そこらで掘られた穴といい」

漆青は首を傾げた。

「……」
「どうした?」

黙り込んだ翡翠の様子に、錆光が声をかける。

「これを」

帯状に伸びた痕の脇に点在する足痕。

「自分の上肢で、自らの下肢をひきずっている……」
「何の意味が」
「解らない。だが」

凝視したまま、翡翠は呟いた。

「相手の領域に侵入りつつあるのは間違いない」

立ち上がり、四方を見渡す。
刹那。
切るような突風が襲う。
視界を塞ぐその先で、確かにくぐもった咆哮がはっきりと聞こえた。

   ◇◇◇

「思った以上に」
「近いな」

辺りを窺う錆光と漆青。
翡翠は、虚空を凝視したまま黙り込んだ。

「どうした?」
「声だ」

翡翠の返事に、

「ええ、確かに」
「違う」

即答に漆青は眉をひそめる。

「おかしいとは思わないか?」
「何が……」
「逃走経路を隠さないとはいえ、わざわざ自らの居場所を教える必要がどこにある?」
「!」
「……確かに」

声のほうに眼を向け、錆光が呟いた。

「考えてみれば」

漆青の表情がこわばる。

「今までの追跡で、相手の意図は解らずじまいでしたね」
「このまま」

翡翠が言葉を切る。

「先に進んでもいいのか……?」

粘り気のある重い風が、言葉を揺らす。
群生した葦が重たげにわななく。
そして。
再びの遠吠え。
きれぎれに風に乗る、ざわめきの濁音。

「……この先は」

錆光が静かに話し出す。

「丘陵が続く。至るところで樹木の根が張りだし、足場は悪い」
「……」
「すでにこのあたりも未探索の地だ」
「とたんに危機感が増しましたね……」

漆青の軽口も乾いて聴こえる。

「そして、われらが捉えきれない相手だ」
「退くことに意味がない」

翡翠は言い放つ。

「遅かれ早かれ、また襲撃される」
「後日ここから探索するというのは?」

漆青の言葉に錆光が、

「討伐は今でないといけない」
「なぜです?」

漆青の疑問に、

「姿をくらます時間を与えることになる」
「……ですか」

漆青は頭を掻いた。

「では、追跡を続けるしか」
「……」
「追い詰めているのは、こちらだ」

眼を閉じた翡翠に、漆青は呟いた。

「追撃しかあるまい」
「……そうだな」

ゆっくりと見開いた翡翠の瞳に、光が宿る。

「済まない。生命を貸してくれ」

   ◇◇◇

緩やかな登り坂も、少しの距離で急に険しくなった。
柔らかな土に、隆起した樹の根。
何度か足を取られながら、翡翠は丘の先に眼を向ける。
相変わらず、行動の痕跡はありありと残されている。
転げ落ち、這い回り、衝突し。
この痕跡をじかに追うのは、翡翠だけ。
錆光と漆青は翡翠から距離をたもち、並列に展開している。
犠牲を最小限に留めるための、急場凌ぎ。

――この丘陵が、もっとも警戒するべき場所。
三様とも、住処の所在を指摘した。
指摘は、あながち外れでもなさそうだった。
散乱した小動物の骨や死骸、栗や団栗の殻に混じって熟れた柿の残骸が、甘い異臭を発している。
暗闇に紛れた錆光と漆青に視線を送り、翡翠は先を追った。
夜空が低い唸りを上げる。

「降るか……」

翡翠は一瞥すると、再び足跡を辿る。
覚束なげな足取りはやがて、一本の楡の巨木の前で途絶えた。
早くなる鼓動を意識しながら、翡翠は周囲を見渡し、錆光と漆青に異変を知らせる。
そのうえで、周囲の様子を調べ始めた。
鼠の死骸や食い荒らされた木の実。
古い骸から新しい果皮まで、近辺に散乱し折り重なっていた。
足痕は消えたまま。
暗然としたまま立ち尽くした翡翠。
錆光と漆青が、翡翠の様子を窺いながら接近を始める。
根本の影に丸くなった蝙蝠の亡骸。
全身を這う違和感と同時に。
翡翠の頭上から滴り落ちた滴に、翡翠はとっさに飛びすさり、

「いるぞ!」

頭上を睨めつけた。

   ◇◇◇

こだまして響く唸り声。
見上げた巨木の影に、ぽっかりと浮かんだ双眸。
一瞬でまたたきが消失し。
楡を揺らし、相手は飛び降りた。
落ちたといってもいい。
よろよろと起き上がった巨躯。
裂けた口から滴る血反吐と涎。
大きな隈取りの奥に覗く、皿のような眼光。
尋常ではない息遣い。

「……!」

立ちはだかった獣の影に、翡翠は全身が粟立った。
相手が正気を失っているのは、一目瞭然だった。

「逃げろ!!」

茫然とした翡翠に、錆光の叱咤が飛ぶ。
我にかえった翡翠は、相手が振り降ろした真っ黒な腕と爪を見た。
強い衝撃が腹部を襲う。
吹き飛ばされた翡翠は、うずめた顔の泥を払いながら、瞬時に立ち上がり。
翡翠を突き飛ばした漆青の鮮血を見た。

「――!!」

巨体は背を裂かれた漆青を捕らえ、そのまま咬みついた。
ごりごりと鈍い音が夜に溶ける。
ゆっくりと口を開く漆青。

「――っ!」

翡翠は瞬時に相手の足下に侵入りこみ、駆け抜けざまに白い腹を裂いた。
漆青を投げ捨て、獣は仰向けに倒れ込みながら、身をよじり暴れた。
絶叫に近い咆哮。

「!」

身悶える獣に飛びこんだ錆光は、遮二無二に振り回された相手の腕に払われ、吹き飛んだ。
柔らかい地面で受け身を取った錆光を横眼で確かめながら、翡翠は身を低くし、再び地面を蹴った。
激昂した相手の咆哮に空気が震える。

   ◇◇◇

再び立ち上がった相手を捉え、翡翠は加速した。
焦点のあわない眼が、翡翠とかちあった。
刹那。
短い悲鳴とともに、獣は膝から崩れ落ちた。
を凝らすと、漆青が相手の下肢にすがりつき、渾身の力で喰らいついている。
均衡を保てない獣は、ずるずると傾斜をすべり始める。
巻き込まれ始めた漆青は、ゆっくりと転がり出した巨体の陰に潰されて見えなくなった。
翡翠はただ、踏み込む両脚に力を込めて蹴りだし。
次の瞬間、低い姿勢を保ったまま、眼前に向かって跳んだ。
吐血と唾液が混じった醜悪な相貌が迫る。
翡翠の一撃が、隈取りの瞳を貫いた。
甲高い断末魔を置き去り、翡翠は跳びのく。
膨れた縞の尻尾を地面に打ち、転がりまわる巨躯。

「やったか!」

錆光が一瞬、動きを緩めた。

「だめだ!」

翡翠の警告と同時に、茶褐色の巨体が錆光に突進した。

「!」

手負いとは思えない俊敏な動きに、錆光は虚をつかれ、影に飲み込まれた。

「くそ!」

巨躯の背中を追い、翡翠はまた駆け出す。
錆光は獣の牙に咬みしだかれ、放り投げられた。
その間をつき。
翡翠は巨躯の背にしがみつき、頸の後ろに牙を突き立てた。

   ◇◇◇

ひときわ甲高い悲鳴。
我を忘れて暴れ回る獣。
翡翠は四肢に渾身の力を張り、振り落とされまいと、衝撃にひたすら耐えた。
獣はでたらめに両手を背に回すが、翡翠には届かない。
滅茶苦茶に突進し、幹に激突し。
最期には半狂乱に丘陵を駆け上がる。
翡翠の感覚を失った両腕が、相手の身体から離れて落ちた。
失いかけた意識のなかで、翡翠は自分が振り落とされていることを認識した。
視界がぐるりと狭まり、回転する。
ぼんやりと翡翠は、遠くの金切り声に耳を傾けた。

「翡翠!」

薄れていく意識を裂くように、力強い声が脳を叩いた。
反射的に立ち上がった翡翠は、こちらに向かって突進する茶褐色の巨体を認めた。
と、そのとき。
背後から強烈な風が一過、翡翠を押しのけた。
強烈にさかまく樹々のうねり。
葉擦れの喧騒がやんだのち、風を受けた巨体は立ち尽くしたまま、微動だにしなかった。
小刻みに全身を震わせ、呆けたようにだらしなく口許を開け放つ。
瞳の奥に浮かびだす、畏怖の色。
全身の震えが徐々に大きく波打ち始めた直後に。
耳をつんざく豪雨が、すべてを呑みこんだ。

   ◇◇◇

肌を刺す冷たい雨に、翡翠は座りこんだ。
狭窄した視界の先で、ぼんやりとした影は凝固したまま。
轟音の端からきれぎれに聴こえるのは、相手の絶叫だった。
翡翠の許に、よろよろと錆光が寄る。

「無事か?」
「そっちは?」

錆光は、赤く染まった左脚に眼を落とし、

「無事とはいえんな」

遠く視線を向けて、

「あれは……?」
「解らない」

悲痛な叫びを続ける獣。

「哀れだな」

と錆光は呟き、

「もう戦意は感じない」
「……」

やがて、巨躯は沈みこんだまま、動かなくなった。
強烈な雨脚はやがて過ぎて。
視界が利くほどに弱まった小雨の先。
距離を取りながら、微動だにしない巨体を探ると。
座り込み、恐怖に顔を歪め、天を仰いだまま。
絶命していた。

   ◇◇◇

漆青の意識はしっかりしていた。
血を流し過ぎた上に、この雨に打たれたせいで、体力と体温を相当失っていたが、致命傷には至っていなかったらしい。

「感覚なんか、もうないですけどね」

漆青は力なく、

「やりましたか?」
「仕留めた、らしい」
「?」

呟く翡翠を見上げた漆青は、

「疲れましたね」
「動けないようなら、増援を呼びに戻るが」
「意地悪な」

と漆青は顔をしかめて見せた。

「あれと一緒は勘弁してくださいよ」
「それだけ話せれば大丈夫だな」

翡翠は微笑い

「とはいえ、これだけの怪我だ」
「正直」

ほっと溜め息をついた漆青は、

「まともには動けません」
「解っている」

顔を上げた翡翠は、

「戻ろう」
「そうだな」

錆光は、眩しいくらいの月を見上げ、

「……?」
「どうした?」

翡翠の言葉に、錆光はかぶりをふり、

「疲労からか、視界の端がチラつく」
「戻るのは遅くていい。体力の温存だけを考えよう」

よろよろと立ち上がった漆青を見やり、翡翠は声をかけた。

  ◇◇◇

翡翠たちが集落に辿り着いた頃には、登り始めた陽射しが集落を柔らかく照らし始めていた。
寝ずの番で帰りを待っていた民が、遠く影を伸ばす翡翠たちの姿を認め駆け寄ってくる。
やはり、一番の重傷は漆青だった。
帰路の途中で、何度か軽い痙攣を引き起こし、歩行すら難儀な様子だった。

「意識はしっかりしてるんですけどね」

苦しそうに四肢を引き摺りながら、

「やられた場所が、どうも」
「変にひりつく」

と同調する錆光。

「軽い怪我ではないからな」

と、翡翠は、

「ともかく外敵は駆逐した」

集落の皆に伝えるよう、警護の者にことづて、

「まずは休養しよう」

漆青は、仲間の介添えで住処に向かい、左脚を引き摺りながら錆光も帰宅の途についた。
去りゆく背中を見送りながら、翡翠は拭えない違和感を覚えていた。

  ◇◇◇

数日が過ぎた。
外敵の脅威が去り、徐々に集落にも平穏が戻ってきた。
木漏れ日のなかでじゃれあう子供たち。
小さな喧騒を傍で聴きながら。
翡翠は弛緩した空気のなか、凝り固まった背中をほぐすように伸びをした。
不可解な行動、不自然な死。
相手に何が起きていたのか……。

「翡翠さん!」

物思いに耽っていた翡翠を現実に戻したのは、集落の警護に当たっていた少年だった。
すでに斜陽の空を仰ぎながら、

「どうした?」
「漆青さんが!」

翡翠はおもむろに立ち上がり、駆け出した。
言いようのない不安はあった。
予感は的中してしまった。

「何があった?」

と声を荒げた翡翠に、

「突然暴れ出して」

と翡翠の後から返答を返す。

「動けるほど回復していたのか?」
「そんなはずないんです。ただ」
「?」
「敵がくるって」

少年を置き去り、翡翠は漆青の住処にたどり着いた。

  ◇◇◇

ゆらりと立った漆青の影。
漆青の背中が、ゆっくりと振り返る。
沈みかけた夕陽の紅を瞳に反射させ。

「敵が」

と漆青は言葉にした。
呂律の回らない漆青の言葉、力なく開いた下顎。

「敵がくる」

かろうじて吐いた言葉とともに、口の端から滴り落ちる唾液。

「……」

翡翠は、漆青の脚元で倒れている仲間の姿を一瞥し、呼吸しているのを確認する。
漆青が首を傾げたまま、細かく震える。

「あれ、どうしました?」

翡翠に笑いかけた漆青は、よろよろと、

「なんだか身体の感覚がないんですよ」

負傷した首元を血で染めながら、涎とともに言葉を吐き出した。

「漆青」
「ひどく頭が痛くて」

聴き取るのが精一杯の言葉。

「どうなったんでしょうか……?」

ぎこちなく身体を揺すった漆青は、驚愕の表情のまま凍りついた。
柔らかな風が吹き抜けた。
刹那。
悲痛な絶叫を上げた漆青が、翡翠に向かって突進してきた。

「……!」

  ◇◇◇

取り押さえられた漆青は、言葉にならない呻き声で威嚇しつづけていた。

「助かった」

と警護団に返す翡翠は、数名にのし掛かられて地面を舐める漆青の姿を見た。

「負傷していますし、動きもかつての漆青さんではないです」
「何が起きている?」

傍らで報告する若者は、翡翠の言葉に首を傾け、

「かいもく見当がつきません」
「……」
「実は」

と、若者は小声になり、

「呪いだと吹聴する者が」
「呪い?」

拍子抜けした表情を察した若者が、

「襲ってきた獣が呪いを発したのだと」
「馬鹿な」

吐き捨てた翡翠。

「呪いなどではない」
「では?」
「……」

翡翠は帷の落ちた闇を睨み、歩き出した。

  ◇◇◇

向かったのは錆光のもとだった。

「せわしいな」

と錆光は横になったまま応えた。

「手短に訊く」

翡翠は、

「おまえの身体に、異常はないか?」

一瞬流れる緊張の空気。

「何が起きている?」
「漆青の気が触れた」
「?」
「おそらく、例の獣から伝染った病だ」
「なるほど」

投げ出した左脚を少し撫で、

「この麻痺は、その病の仕業か」
「症状は?」
「悪いな」

錆光は言った。

「うまく話せん。下顎の感覚がない」

くぐもって聴こえた。

「ほぼ全身の感覚がない。頭痛もひどい」
「そうか」

翡翠は、微動だにしない錆光に、

「他には?」
「風だ」
「なに?」
「風が吹くと」

錆光はゆっくりと宙を仰いだ。

「身体中に、激痛が」

夜風に、錆光は震えていた。
この数日で変わり果てた錆光の姿に、翡翠はただ頭を垂れた。

「意識がはっきりしているぶん」

喘ぐように錆光は続けた。

「病の自覚は希薄かもしれん」
「感染しても気づかない?」

錆光は眼を閉じた。

「……」

錆光はもつれる舌で、

「感染者を捨て、移動するべきだ」
「なに?」
「集落の危機になる」

苦しそうに頬を歪め、錆光は息を吐いた。
おそらく獣との交戦が原因。
翡翠はほとんど確信していた。
咬傷か創傷か、相手から受けた傷が病を運んだ……。
対峙した獣から察すると、漆青の命は、もう長くはない。
今はかろうじて平静を保っているが、錆光もいずれ病に負ける。
そして。

「俺とて」

翡翠は呟いた。

「ならば」

これからの行動は、簡単だ。

「……」

錆光が翡翠を見上げた。

「皆にはこの土地を去るように伝えよう」

苦しそうに吐き出した、一言。
錆光はただ、軽く頷いた。

  ◇◇◇

「俺はここに残る」

と翡翠は言った。

「すでに発症した者もある。すぐにでも出立してもらいたい」

集まった集落の民は、翡翠の話に顔を見合わせると、

「しかし……」
「なぜ翡翠どのが残られるのか?」

疑問を呈した者に、

「俺こそ感染の疑いが濃厚だ。現に錆光と漆青は発症した。次は」

一拍。

「俺かも知れない」
「病気ではないかも知れないではないか」
「皆の生命を守るのに、憶測は禁物だ。疑いがあるなら、それは感染者として扱う」
「では、われわれの先導は誰が?」

翡翠は視線を転じ、

「警護団の若者に任せる」

突然の名指しに、驚いて背筋を伸ばす若者たち。

「警護団の長は?」

の質問に、静かに前に出た者。

「今からお前は、白胸(ハクキョウ)と名乗れ」
「はい」
「ここより陽の上がるほうへ真っ直ぐに進むと、河に出る」

と、翡翠は彼方を仰いだ。

「河に沿い、水の流れる先へ皆を導け」
「その先には?」

白胸の質問に、

「そこには大きな邑があるらしい。よく治められた土地だという」
「そこへ?」

軽く頷いた翡翠は、

「易から訊いた話では、邑に住まう者を集めているとのことだ。悪くは扱われまい」
「解りました」

白胸は、見通しのよい平原のさきを望み、

「なぜ水辺なのです? 河にたどり着くまで、身を隠す場所がない」

白胸の言葉に、翡翠は、

「おまえに伝えておくことがある」

と両眼を捉えた。

  ◇◇◇

「この病は、精神を冒す」

不思議そうな白胸を横に、

「凶暴になり、仲間を襲う」
「はい」
「気が触れるのには原因がある」
「でも、今知りたいのは」

と言う白胸を制し、

「末期症状での全身の激痛。その痛みを誘うのは、風だ」
「風、ですか?」
「そして、あの獣の最後を鑑みるに」

宙に視線を動かし、

「もうひとつの誘因は、水だと思っている」
「それは……」
「感染者がなければよし、もしも感染者がいたなら」
「……」
「風と水に反応するはずだ」
「水辺の環境が、感染者を見つけると」
「だけではない」

眼を細めた翡翠は、

「残った皆の生命を助けてくれる」

じっと翡翠を見つめていた白胸は、

「解りました」

決然と頷いた。

  ◇◇◇

獣に強襲された若者たちは、下半身に麻痺が進み、立ち上がることもできなくなっていた。
感染がいちばん遅かった漆青が真っ先に重症化し、始めに遭遇したはずの母親は、未だ発症の兆しもない。
漆青は半狂乱になった挙句、水路に頭を突っ込んで絶命した。
錆光は、眠るように事切れていた。
身を切る鋭い風が、翡翠の頬を掠めてゆく。
四方から湧く悲痛な呻き声のなか。

「冬がくる」

熱に喘ぎ、とうとう持ち堪えることができなかった子供の傍らで。
母親は茫然と、

「……どうしてこうなったんでしょうか?」

誰にともなく呟く。

「私たちは、どうなるのでしょうか……?」

動けずに威嚇する二方の若者に眼をやり、息絶えた幼児を見つめ。
翡翠は、灰色に塗り込められた空を見上げた。
母親は、よろよろと天を仰ぐ。
片脚を軽く引きずる仕草。
垂れ込めた冬の空気に、翡翠は少し震えた。