群衆の中の猫SAMPLE
『群衆の中の猫』サンプルを掲載します。お話の冒頭を掲載しています。
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1
小さく丸まった背中。
柔らかい体毛は、身体のラインを跳ねるようにピンと立っている。
ぼんやりとしたなかで、その白銀がチラチラとまたたいた。
……懐かしいな。
もうずいぶん昔からの顔馴染み。
カケルはその仔猫を知っていた。
蹲る背中に、そっと掌を伸ばした。
柔らかい銀毛に触れるまで。
懐かしい体温も、陽だまりの匂いも。
すでに失われて久しいことを、カケルはぼんやりと反芻していた。
『銀』と呼んだこの仔猫は、もういない。
この邂逅はあり得ない。
銀はカケルが多感な時期を迎える前、ある日の朝に。
車にはねられて冷たくなっていた。
これは、かつて何度も見た夢。
「……久しぶり」
カケルは小さな背中に呟きかけた。
両掌に包まれるぐらいの銀は、カケルの姿を認めるとひとつ鳴いた。
覚束ない足取り。
大きな青い瞳が煌めいた。
暗い天井と照明を、カケルは茫然と見上げていた。
ただの一瞬、空いた裡がみる間に埋まってゆく感覚。
「どうかした?」
傍らでは怪訝そうな表情のアカリ。
「……泣いてるの?」
「え?」
瞼に指を当てるカケル。
「あれ?」
困惑するカケルに安堵の吐息、微笑みながらアカリはベッドを出た。
「なにか飲む?」
「……夢を、見てた」
掌にしたコップを指で拭いながら、
「久々に見た夢だった」
昔馴染みの夢の話。
――可愛かった銀の話。
銀を飼う環境がなかった話。
公園に作った銀の家の話。
打ち捨てられた亡骸、雨の朝の話――。
アカリは、軽く頷きながら耳を傾けていた。
「……悲しくなっちゃったね」
アカリが口にする。
「ゴメンね」
「いいって」
アカリは微笑み返す。
「そういうこと、ちゃんと心にしまったままのヒト、いいと思うよ」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
おどけて小さく頭をさげるアカリ。
「今、何時?」
「ええと…… 二時」
「もう少し寝ましょうか」
毛布をたぐったアカリが、
「大丈夫? 眠れそう?」
「ん。大丈夫」
カケルの返事に微笑みながら、アカリは頭から毛布を被った。
カケルは瞼を閉じた。
気だるい心地良さに身を預け、カケルは微睡んでいた。
休日の朝には緊張感はない。
弛緩した気分を毛布にくるみ、カケルはぼんやりと瞳を開いてみた。
アカリの姿はすでにない。
寝室を隔てたリビングからはテレビの喧騒。
遠くで響く洗濯機の音。
ゆっくりと寝返ったカケルのもとに。
慌ただしいスリッパの足音が飛びこんできた。
「おはよ!」
カゴ一杯の洗濯物を抱えたアカリ。
「シーツも洗うよ!」
強引に寝床を追われキョトンと床に座るカケルのようすに、アカリは苦笑まじりに、
「せっかくのお天気なんだから。掃除でしょ、洗濯でしょ、美味しい朝ご飯食べてから……」
神妙な顔つきで指を折っていく。
アカリのようすに、思わず笑みをこぼしたカケルは、
「せっかくだもんね」
「そうだよ」
と、アカリは頷く。
「散歩行こうね」
カケルの裡で温かくなるもの。
「久々の晴れだからね」
「ね?」
屈託のない笑顔を振りまくアカリ。
「良かったよ、アカリがいて」
キョトンとするアカリに、
「ありがとうね」
「なにが?」
戸惑うアカリにカケルは微笑った。
久々の晴れ間。
先週から続く、粘りつくような雨に辟易していた。
この雨のあとにやってくる季節は、すぐそこまで来ている実感とともに。
「晴れたらやっぱ、気持ちいいね」
「少し蒸すけどね」
マンションからほど近い河川の跡、暗渠になった遊歩道を歩く。
背の高い建物が増えてきた近所を見上げ、柔らかい陽光に眼を細める。
軽やかな時間。
行き過ぎるリードのダルメシアン。
久しぶりの陽射しに、足取りも軽く見える。
繋いだ手。
伝わる柔らかさと温かさ。
「のんびり日和だ」
呟いたアカリは大きな伸びをした。
「ぽっかり空いた隙間みたいだね」
カケルの言葉を継いで、
「しかも不意打ちのやつね」
「曲がり角からの出会い頭」
「出会い頭の隙間……」
「なにそれ?」
顔を見合わせて笑いだした。
夕食のあと。
二人で開けた缶ビールを傾けていると、再び静かに雨が降りだした。
「やっぱり、いやだな」
テレビに視線を送ったまま、アカリが呟いた。
「……雨?」
「なんだか気分が滅入るよ」
「……でも、雨は上がるから」
一口含んで喉を潤したカケルは呟いた。
アカリはカケルの言葉に耳を傾けていた。
「色のない空から、綺麗な風景が見ることができるようになる」
「解ってるんだけどね」
ふう、と溜め息のアカリ。
「やっぱり、雨は好きになれなくて」
口を尖らせて小鼻に皺をよせる。
「もう小さい頃から」
「そうなんだ」
「なんていうか、嫌な思い出があったわけでもないんだけど……」
言い淀んだアカリ。
「紫陽花」
「え?」
カケルの横で言葉を探すアカリ。
座りなおしたカケル。
「あの花が、すごく嫌いなの」
「……それで」
アカリがあまり見せない嫌悪の表情。
「だから、厳密には紫陽花がきらいなんだけど」
「雨が、紫陽花を連想させるから?」
小さく頷くアカリ。
「でも不思議だね。なんでだろう?」
「あの花がね、なんていうか……」
「?」
「じっとこっちを見ているというか」
眉間に皺を寄せて、
「あの花、ヒトの首に見えない?」
突飛な言葉に面食らったカケルは、
「言われればそう見えなくもないけど」
「でしょ? ぼんやりと見つめられている感じがね」
短く息継ぎ。
「……ホントに嫌なの」
呆気にとられたカケルに気付いたアカリは、慌てて笑顔を作ると、
「あの花の話だと、いつもこうなっちゃう」
「でも、解る気はするよ」
カケルは、
「僕のは、まあ、よくある話かな」
「?」
「僕が嫌いだったのは、夜、電気を消して、それでもうっすらと明かりが差しこんでさ」
「うん」
「ぼんやりと仄暗い部屋に、ひときわ濃い闇が現れる。例えば部屋の隅なんかに」
「吹き溜まりみたいな……」
「そうそう」
「確かに。あれは怖いかも」
部屋の隅に眼を遣りながら、カケルは独り言のように呟き始める。
「……部屋の隅のすごく暗い場所をじっと見つめてると、その真ん中がぐるりと歪んで」
「……」
「すぐに解るんだ」
「なにが……?」
「ああ、また見てるって」
「?」
「ぽっかり空いた歪みから、いつでもこっちを覗いているんだ」
「誰が……?」
というアカリの問いに、
「誰だろうね。解らないや」
「もうやだ、怖いこわい」
空気を変えるようにアカリは笑った。
「少し飲みすぎたかな」
「もう休もうか」
空いた缶を持ってカケルはキッチンへ。
テレビを消したアカリは、ふと、
「ね?」
「え?」
振り向いたカケルに、真っ直ぐなアカリの視線。
「……今でもこっちを見てる?」
「暗闇?」
小さく頷くアカリに、カケルは笑う。
「ないない」
「ならよかった」
ほっとしたように小さく息を吐き、アカリは微笑んだ。
隣で安定した寝息のアカリ。
カケルは暗い天井を見あげた。
薄く影を落とす寝室、やまない雨音。
ふと、昨晩の夢、銀との邂逅を思いだした。
大きな悲しみだって、時を経て頭の片隅からさえ居なくなる。
銀を忘れていたことに、後ろめたさを覚えていない裡に驚いていた。
少しだけ考えてみて、寝返りを二回。
いつの間にか、カケルは眠りに落ちていた。
うっすらとした夜明け。
細雨が風景を静かに濡らしていた。
外に近くなるにつれ肌寒さを感じ。
「さて」
と独りごちたカケル。
玄関で待つアカリに、
「ゴメン、お待たせ」
「よし、じゃ行こうか」
アカリは勢いよく扉を開け放った。
最寄り駅まで一緒に通勤、上りと下りで行き先が分かれる。
大抵は、先に到着する上りに乗りこむアカリを見送ったあと、下りを利用して仕事に向かう。
週の初め、早朝から降り出した霧雨もあり、今日のホームはいつもより待つ人も多く見えた。
人影の間からちらつく赤い傘。
色がない風景のなかで、ひときわ鮮やかに眼に飛びこむ傘の色彩。
赤い色を追い、小さな黄色に重なり、大きな柄物がすれ違う。
少し楽しくなり、ぼんやりと眼で追っていたカケルは、やってきた上り電車の影と轟音に我にかえった。
乗りこんだアカリが、窓ごしに小さく掌を振った。
カケルも小さく見送る。
アカリを乗せた車両の窓が見えなくなる頃、カケルを乗せる電車が滑りこんできた。
雨は一日中、降り続いた。
カケルの帰宅時間と重なり、軽く混雑したホーム。
汗がじんわりと湧きだす。
この梅雨が終われば、眩しい陽射しの季節が訪れる。
雨上がりを待ち、晴れ間を望む。
カケルは街並みを眺めた。
霧に包まれたように不確かな風景。
暗く染まった空、沈みがちな気持ちを振り払うように、やってくる電車の影に眼を向けた。
回送電車は警笛を鳴らし、カケルの待つホームに到達する。
空気が、動いた。
カケルの傍ら。
掠める影に、眼を移した刹那。
その視線と交錯した。
マスクで顔を覆った瞳がカケルを凝視した。
警笛がけたたましく鳴り響く。
耳をつんざくブレーキ音。
突然すぎて理解する間もなく。
軋んだ摩擦音、長い断末魔。
やがて電車は白い煙とともに停車した。
静かな空気、降り続く雨。
徐々に確実に、異変は伝播していく。
「あの……。なにが、あったんですか……?」
傍で不安を湛えたままの主婦が、カケルに問いかける。
「……僕も、解らないんです」
声に出した言葉が、まるで他人のものに聴こえた。
「飛びこんだ!」
カケルが見たままを、誰かが叫んだ。
まるでボヤ騒ぎのような白煙がホームに流れこみ、後ろで女学生が鳴咽をあげた。
鉄が擦れあった鼻を突く異臭と、微かに混じる灼ける臭い。
カケルはホームの向こう、線路の先に眼を凝らした。
白煙に包まれた電車の最後尾。
燻った異臭は更に強く。
遠くで非常ベルが鳴り響いていた。
停車した電車の影から少し手前、線路のうえに、なにかの塊が見えた。
布切れに包まれた塊は、落ちているのではなく、横たわっているのだと認識できるまで、カケルには些少の時間が必要だった。
さざめきのように喧騒が広がる。
向かいのホームでは、線路の先を仰ぎ見るヒトたちに、泣き崩れた女性。
眼を転じると、壁にもたれかかった女学生が小さくうずくまっている。サラリーマンと主婦が介抱していた。
異臭と白煙、さめざめと降る雨。
世界が遠く見えた。
塊から力なく伸びた腕は、静かに霧雨に濡れそぼり。
慌てたようすで駅員が四人、階下からホームに駆けてくる。
停車した電車からは、乗り合わせた鉄道工事関係者らしいヒトが線路脇に降り立ち、大きく手を振った。
遠くから近づいてくるサイレン。
カケルはただ、立ちつくした。
……(続く)