群衆の中の猫【試し読み】
収録作の1章を掲載します。
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◇◇◇
小さく丸まった背中。
柔らかい体毛は、身体のラインを跳ねるようにピンと立っている。
ぼんやりとしたなかで、その白銀がチラチラとまたたいた。
……懐かしいな。
もうずいぶん昔からの顔馴染み。
カケルはその仔猫を知っていた。
蹲る背中に、そっと掌を伸ばした。
柔らかい銀毛に触れるまで。
懐かしい体温も、陽だまりの匂いも。
すでに失われて久しいことを、カケルはぼんやりと反芻していた。
『銀』と呼んだこの仔猫は、もういない。
この邂逅はあり得ない。
銀はカケルが多感な時期を迎える前、ある日の朝に。
車にはねられて冷たくなっていた。
これは、かつて何度も見た夢。
「……久しぶり」
カケルは小さな背中に呟きかけた。
両掌に包まれるぐらいの銀は、カケルの姿を認めるとひとつ鳴いた。
覚束ない足取り。
大きな青い瞳が煌めいた。
◇◇◇
暗い天井と照明を、カケルは茫然と見上げていた。
ただの一瞬、空いた裡がみる間に埋まってゆく感覚。
「どうかした?」
傍らでは怪訝そうな表情のアカリ。
「……泣いてるの?」
「え?」
瞼に指を当てるカケル。
「あれ?」
困惑するカケルに安堵の吐息、微笑みながらアカリはベッドを出た。
「なにか飲む?」
「……夢を、見てた」
掌にしたコップを指で拭いながら、
「久々に見た夢だった」
昔馴染みの夢の話。
――可愛かった銀の話。
銀を飼う環境がなかった話。
公園に作った銀の家の話。
打ち捨てられた亡骸、雨の朝の話――。
アカリは、軽く頷きながら耳を傾けていた。
「……悲しくなっちゃったね」
アカリが口にする。
「ゴメンね」
「いいって」
アカリは微笑み返す。
「そういうこと、ちゃんと心にしまったままのヒト、いいと思うよ」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
おどけて小さく頭をさげるアカリ。
「今、何時?」
「ええと…… 二時」
「もう少し寝ましょうか」
毛布をたぐったアカリが、
「大丈夫? 眠れそう?」
「ん。大丈夫」
カケルの返事に微笑みながら、アカリは頭から毛布を被った。
カケルは瞼を閉じた。
◇◇◇
気だるい心地良さに身を預け、カケルは微睡んでいた。
休日の朝には緊張感はない。
弛緩した気分を毛布にくるみ、カケルはぼんやりと瞳を開いてみた。
アカリの姿はすでにない。
寝室を隔てたリビングからはテレビの喧騒。
遠くで響く洗濯機の音。
ゆっくりと寝返ったカケルのもとに。
慌ただしいスリッパの足音が飛びこんできた。
「おはよ!」
カゴ一杯の洗濯物を抱えたアカリ。
「シーツも洗うよ!」
強引に寝床を追われキョトンと床に座るカケルのようすに、アカリは苦笑まじりに、
「せっかくのお天気なんだから。掃除でしょ、洗濯でしょ、美味しい朝ご飯食べてから……」
神妙な顔つきで指を折っていく。
アカリのようすに、思わず笑みをこぼしたカケルは、
「せっかくだもんね」
「そうだよ」
と、アカリは頷く。
「散歩行こうね」
カケルの裡で温かくなるもの。
「久々の晴れだからね」
「ね?」
屈託のない笑顔を振りまくアカリ。
「良かったよ、アカリがいて」
キョトンとするアカリに、
「ありがとうね」
「なにが?」
戸惑うアカリにカケルは微笑った。
◇◇◇
久々の晴れ間。
先週から続く、粘りつくような雨に辟易していた。
この雨のあとにやってくる季節は、すぐそこまで来ている実感とともに。
「晴れたらやっぱ、気持ちいいね」
「少し蒸すけどね」
マンションからほど近い河川の跡、暗渠になった遊歩道を歩く。
背の高い建物が増えてきた近所を見上げ、柔らかい陽光に眼を細める。
軽やかな時間。
行き過ぎるリードのダルメシアン。
久しぶりの陽射しに、足取りも軽く見える。
繋いだ手。
伝わる柔らかさと温かさ。
「のんびり日和だ」
呟いたアカリは大きな伸びをした。
「ぽっかり空いた隙間みたいだね」
カケルの言葉を継いで、
「しかも不意打ちのやつね」
「曲がり角からの出会い頭」
「出会い頭の隙間……」
「なにそれ?」
顔を見合わせて笑いだした。
◇◇◇
夕食のあと。
二人で開けた缶ビールを傾けていると、再び静かに雨が降りだした。
「やっぱり、いやだな」
テレビに視線を送ったまま、アカリが呟いた。
「……雨?」
「なんだか気分が滅入るよ」
「……でも、雨は上がるから」
一口含んで喉を潤したカケルは呟いた。
アカリはカケルの言葉に耳を傾けていた。
「色のない空から、綺麗な風景が見ることができるようになる」
「解ってるんだけどね」
ふう、と溜め息のアカリ。
「やっぱり、雨は好きになれなくて」
口を尖らせて小鼻に皺をよせる。
「もう小さい頃から」
「そうなんだ」
「なんていうか、嫌な思い出があったわけでもないんだけど……」
言い淀んだアカリ。
「紫陽花」
「え?」
カケルの横で言葉を探すアカリ。
座りなおしたカケル。
「あの花が、すごく嫌いなの」
「……それで」
アカリがあまり見せない嫌悪の表情。
「だから、厳密には紫陽花がきらいなんだけど」
「雨が、紫陽花を連想させるから?」
小さく頷くアカリ。
「でも不思議だね。なんでだろう?」
「あの花がね、なんていうか……」
「?」
「じっとこっちを見ているというか」
眉間に皺を寄せて、
「あの花、ヒトの首に見えない?」
◇◇◇
突飛な言葉に面食らったカケルは、
「言われればそう見えなくもないけど」
「でしょ? ぼんやりと見つめられている感じがね」
短く息継ぎ。
「……ホントに嫌なの」
呆気にとられたカケルに気付いたアカリは、慌てて笑顔を作ると、
「あの花の話だと、いつもこうなっちゃう」
「でも、解る気はするよ」
カケルは、
「僕のは、まあ、よくある話かな」
「?」
「僕が嫌いだったのは、夜、電気を消して、それでもうっすらと明かりが差しこんでさ」
「うん」
「ぼんやりと仄暗い部屋に、ひときわ濃い闇が現れる。例えば部屋の隅なんかに」
「吹き溜まりみたいな……」
「そうそう」
「確かに。あれは怖いかも」
部屋の隅に眼を遣りながら、カケルは独り言のように呟き始める。
「……部屋の隅のすごく暗い場所をじっと見つめてると、その真ん中がぐるりと歪んで」
「……」
「すぐに解るんだ」
「なにが……?」
「ああ、また見てるって」
「?」
「ぽっかり空いた歪みから、いつでもこっちを覗いているんだ」
「誰が……?」
というアカリの問いに、
「誰だろうね。解らないや」
「もうやだ、怖いこわい」
空気を変えるようにアカリは笑った。
「少し飲みすぎたかな」
「もう休もうか」
空いた缶を持ってカケルはキッチンへ。
テレビを消したアカリは、ふと、
「ね?」
「え?」
振り向いたカケルに、真っ直ぐなアカリの視線。
「……今でもこっちを見てる?」
「暗闇?」
小さく頷くアカリに、カケルは笑う。
「ないない」
「ならよかった」
ほっとしたように小さく息を吐き、アカリは微笑んだ。
◇◇◇
隣で安定した寝息のアカリ。
カケルは暗い天井を見あげた。
薄く影を落とす寝室、やまない雨音。
ふと、昨晩の夢、銀との邂逅を思いだした。
大きな悲しみだって、時を経て頭の片隅からさえ居なくなる。
銀を忘れていたことに、後ろめたさを覚えていない裡に驚いていた。
少しだけ考えてみて、寝返りを二回。
いつの間にか、カケルは眠りに落ちていた。
うっすらとした夜明け。
細雨が風景を静かに濡らしていた。
外に近くなるにつれ肌寒さを感じ。
「さて」
と独りごちたカケル。
玄関で待つアカリに、
「ゴメン、お待たせ」
「よし、じゃ行こうか」
アカリは勢いよく扉を開け放った。
最寄り駅まで一緒に通勤、上りと下りで行き先が分かれる。
大抵は、先に到着する上りに乗りこむアカリを見送ったあと、下りを利用して仕事に向かう。
週の初め、早朝から降り出した霧雨もあり、今日のホームはいつもより待つ人も多く見えた。
人影の間からちらつく赤い傘。
色がない風景のなかで、ひときわ鮮やかに眼に飛びこむ傘の色彩。
赤い色を追い、小さな黄色に重なり、大きな柄物がすれ違う。
少し楽しくなり、ぼんやりと眼で追っていたカケルは、やってきた上り電車の影と轟音に我にかえった。
乗りこんだアカリが、窓ごしに小さく掌を振った。
カケルも小さく見送る。
アカリを乗せた車両の窓が見えなくなる頃、カケルを乗せる電車が滑りこんできた。
◇◇◇
雨は一日中、降り続いた。
カケルの帰宅時間と重なり、軽く混雑したホーム。
汗がじんわりと湧きだす。
この梅雨が終われば、眩しい陽射しの季節が訪れる。
雨上がりを待ち、晴れ間を望む。
カケルは街並みを眺めた。
霧に包まれたように不確かな風景。
暗く染まった空、沈みがちな気持ちを振り払うように、やってくる電車の影に眼を向けた。
回送電車は警笛を鳴らし、カケルの待つホームに到達する。
空気が、動いた。
カケルの傍ら。
掠める影に、眼を移した刹那。
その視線と交錯した。
マスクで顔を覆った瞳がカケルを凝視した。
警笛がけたたましく鳴り響く。
耳をつんざくブレーキ音。
突然すぎて理解する間もなく。
軋んだ摩擦音、長い断末魔。
やがて電車は白い煙とともに停車した。
静かな空気、降り続く雨。
徐々に確実に、異変は伝播していく。
「あの……。なにが、あったんですか……?」
傍で不安を湛えたままの主婦が、カケルに問いかける。
「……僕も、解らないんです」
声に出した言葉が、まるで他人のものに聴こえた。
「飛びこんだ!」
カケルが見たままを、誰かが叫んだ。
まるでボヤ騒ぎのような白煙がホームに流れこみ、後ろで女学生が鳴咽をあげた。
鉄が擦れあった鼻を突く異臭と、微かに混じる灼ける臭い。
カケルはホームの向こう、線路の先に眼を凝らした。
白煙に包まれた電車の最後尾。
燻った異臭は更に強く。
遠くで非常ベルが鳴り響いていた。
停車した電車の影から少し手前、線路のうえに、なにかの塊が見えた。
布切れに包まれた塊は、落ちているのではなく、横たわっているのだと認識できるまで、カケルには些少の時間が必要だった。
さざめきのように喧騒が広がる。
向かいのホームでは、線路の先を仰ぎ見るヒトたちに、泣き崩れた女性。
眼を転じると、壁にもたれかかった女学生が小さくうずくまっている。サラリーマンと主婦が介抱していた。
異臭と白煙、さめざめと降る雨。
世界が遠く見えた。
塊から力なく伸びた腕は、静かに霧雨に濡れそぼり。
慌てたようすで駅員が四人、階下からホームに駆けてくる。
停車した電車からは、乗り合わせた鉄道工事関係者らしいヒトが線路脇に降り立ち、大きく手を振った。
遠くから近づいてくるサイレン。
カケルはただ、立ちつくした。
◇◇◇
「災難だったね」
アカリの柔らかな声。
風呂を出たカケルにグラスを差しだす。
「蒼白なんだもの、驚いた」
少し口を尖らせて話す癖。
「そんなの見たら、誰でもそうか」
「今になって、現実味がわいてきたよ」
グラスの水を飲み干したカケル。
顔は火照っているが、指先は冷たい。
震えている右手を左手で包みこみ、
「……もう時間がない」
「え?」
「……え?」
怪訝な表情のアカリと眼があった。
意識なく口をついて出た言葉に、
「僕、今なにか言った?」
「もう」
柔らかい微笑を浮かべたアカリ。
「仕方がないよ」
アカリはカケルの肩に掌を置き、
「不可抗力だったんだって」
「……冷たいかもだけど」
カケルが呟き始めた。
「きっと同じような事は、いたるところで起きていて」
「うん」
「知らない他人を思うほど、僕にはたぶん余裕はない」
「うん」
「ヒトのことは解らない。でも」
口を噤んだカケル。
少し潤んだ瞳でアカリは覗きこんだ。
「……なんで、そっちを選ばなきゃいけなかったのかな、って」
「うん」
「もっとなにか…… あったんじゃないかって」
「うん」
「……僕は、とめられなかった」
カケルはぽつりと呟いた。
呟きは、そっと包みこまれるように。
アカリがカケルを抱きしめて、
「自分を責めることない」
「……うん」
「あなたはそのヒトにはなれないから」
柔らかく頭をかきむしり、
「出会いがしらの事故だったんだよ」
アカリは微笑んだ。
握りあった掌と掌。
掌を伝う心地よい熱と鼓動。
カケルにこびりついた不安を落としてゆくように。
カケルはただ反芻した。
◇◇◇
薄暗い天井と照明を見ていた。
とりとめのない会話に付き合ってくれたアカリも、今は深い寝息とともに。
凝縮された、ひときわ濃い闇に眼を転じ。
ぐるりと廻り始めた深淵。
蠢く錯覚の奥を、カケルは凝視した。
「……時間がない」
口をついて出た言葉。
不意に呟いていた言葉に、カケル自身が驚いた。
「なにがないって……?」
自分の呟きに問いかけて、失笑した。
「……疲れてるのかな」
傍らで寝ているアカリを見た。
カケルは先ほどの経験を思い返していた。
――マスク越しの瞳。
向こう側に行きながら、こちら側に身を置いたあの眼。
……いつか、忘れるんだろうか?
寝返ったカケルは、部屋の隅を見た。
◇◇◇
動きのない曇天。
音もなく降り続く霧雨。
倦怠感に任せ、カケルは窓の外を見ていた。
早くなった日の出も、今日は雨雲にかげったまま。
かすかに香る珈琲。
リビングからの声。
「飲む?」
「……ーん」
生返事で、カケルはのろのろと起き出した。
「なんだか怠いような……」
「大丈夫? たしかに少し疲れた顔してるね」
「そうかな?」
「休んじゃえば?」
とアカリ。
差し迫った仕事も今は特にない。
「……休もうかな」
「あまり良くなかったら、ちゃんと病院行ってね」
アカリはカップを口に運び、ふと、
「……気のせいだったのかな」
「え?」
言い淀むアカリはカケルに視線を向け、
「今朝、どっか外に出た?」
「?」
カケルは首を傾げた。
一拍。
ほっと小さく吐息をついたアカリは、
「だよね……」
困惑顔のカケルに、
「ゴメン、やっぱり私の夢だったみたい」
「夢?」
「そう。でもかなりリアルだったから」
コーヒーカップに注ぐ珈琲の湯気。
お互いに不思議な表情。
「どんな夢?」
おずおずとアカリは、
「時間は解らないけど、まだ辺りは暗くて」
「うん」
「もう目眩が酷いかんじで、眠くてしょうがなかったんだけど」
「……」
「カケルが、覗きこんでた……」
アカリは小首を傾げた。
「起きるのもダメだったのに、カケルが離れていったらハッとして。気がついたら跳ね起きてた」
困ったように微笑んだ。
「でも隣でカケルは寝てるし。あれ? ってなって」
「なんだろうね」
「だから、外にでも行ったのかなって」
カケルは少し困惑しながら、
「ホントにリアルな夢だったんだね」
「……なんだか不思議」
アカリが小さく首を傾げたあと。
「あ! もう行かなきゃ」
テレビからの時報に、改めて慌てる。
ばたばたと挨拶をかわし、玄関を出たアカリの足音が遠のく。
訪れた静寂に重なる雨音。
重い睡魔をカケルは意識した。
◇◇◇
ベランダの窓を叩く雨音。
ふと。
カケルは眼を開いた。
少しの違和感とともに、時計に眼を移す。
少しだけ眼を瞑ったはずが、すでに正午に届く時刻になっていた。
「……寝ちゃったのか」
こめかみを軽く指で押しながら、のろのろと身を起こした。
喉の渇きを一杯の水で癒し、カケルは窓を見た。
雨はまるで惰性のように降り続く。
灰色の雲をぼんやりと眺めていたカケルは、不意の着信音で我にかえった。
吹き出しのレイアウトにメッセージ。
タクミの人懐っこい笑顔が浮かぶ。
「元気?」
「どうしたの?」
カケルの返事にすぐ、
「大した用事はないけど。今日は休み?」
「今日は会社サボっちゃった」
「仕事なんて適当にやってりゃいいんだよ」
投げやりな言葉に、カケルは苦笑い。
「で、どうしたの?」
の問いかけに、少しの妙な間。
「こりゃ俺らしくないな」
タクミの言葉に首を傾げたカケル。
すぐにタクミからのメッセージ。
「まずはカケルが無事でよかった。今から電話してもいいか?」
「それはいいけど」
の返信に、すぐに鳴り出す携帯。
「……もしもし?」
応じたカケルに、
「元気?」
タクミの声はおどけて応える。
軽い挨拶のあと、
「……休みのとこ悪かったな」
「具合が悪いわけじゃないから」
妙な間。
「……ホント、こりゃ俺らしくないな」
「?」
二人の会話が少し齟齬を残す。
「単刀直入に聴くけど。お前、きのう俺ん家の近所に来たか?」
「え?」
カケルの反応に、
「来るわけねえよな……」
声だけで困惑したようすが伝わる。
不意の、漠然とした不安。
カケルは鼓動を意識した。
「どういうこと……?」
「あのさ……」
タクミが通勤で利用する最寄り駅。
タクミが降りたホームから、ふと線路の向こう側へ眼を転じると。
次の電車が到着するアナウンス、まばらに待つ乗客が動きだすそのなかに。
「僕が、いた?」
カケルが継いだ言葉に、いや、とタクミ。
「でも見間違いだ。それでいいんだ」
「?」
「だいたい、おかしいんだ。反対ホームのそいつがさ」
声のトーンが急に小さくなる。
それでもカケルの耳には明瞭に響いた。
「飛び降りたんだ」
◇◇◇
カケルのようすを察したのか、
「続きを聴いてくれ」
「うん」
「……いつもどおりだったんだ」
「え?」
「誰も飛びこんでないし、事故なんか起きてない」
「……それって」
カケルは言葉を失った。
「見たはずなのに異変はなかった。まわりだって普通だよ」
短い溜め息。
「もう訳がわからなくてな」
「それで……」
「そんなことがあったんで、ちょっと気になったんだ。念のためというか」
「そうか」
短い沈黙のあと、
「とにかくよかった」
とタクミ。
「個人的には腑におちないけどな」
「不思議な話だね」
俺も本気で仕事休もうかな、と呟いたタクミは、
「とりあえず週末そっち行くわ。たまにはメシ食おうぜ」
軽い挨拶で電話を切った。
不意に着信音が鳴った。
画面を眺めたカケルは、タクミが送ってきたメッセージを確認した。
「とにかく気をつけろよ」
静かな雨音が戻ってきた。
◇◇◇
「それで?」
リズムよく刻まれるキャベツ。
「結局、よく解らなかった」
「不思議なハナシだね」
少し早めの帰宅をしたアカリ。
少し早めの夕食の支度。
「神妙なタクミくんも珍しいね」
「ホントだ」
二人で並ぶ、キッチンの風景。
ぐらぐらと煮立った湯気。
「でも、気をつけるに越したことはないね」
アカリはカケルに、
「今朝のこともあるし」
「そうだね……」
カケルは微かに頷く。
「タクミくんの気持ち、今だから解る気がするんだよね」
「うん」
「見た夢、ホントにリアルだったもん」
「気をつけるよ」
とはいえ、カケル自身も困惑していた。
「ほら、昔からよくいうじゃない」
「?」
「どっかに自分とそっくりな人が、必ず二人いて」
「三人じゃなかったっけ?」
二人で首を傾げ、微笑った。
「まあ、数人いて」
訂正してみて、また二人は笑い出した。
「説得力まるでないね」
「そうだね」
仕切り直しの咳払い。
「その瓜二つが出会うと、死んじゃうって話」
「え?」
「なに?」
「いい事があるんじゃなかったっけ」
アカリは眉をひそめて返した。
「違うよ、出会っちゃダメなんだよ」
「そうだっけ?」
アカリは、頬を膨らませて頷く。
「なんにしても」
カケルは、
「そんな二人が出会う可能性なんて、とんでもない確率だよ」
「そうなんだけど」
表情を曇らせるアカリに、
「大丈夫、心配いらないよ」
と声をかける。
栓のない心配事。
偶然が重なって、意味があるかのように錯覚しただけ。
「でも、ありがとう」
カケルは真っ直ぐに言った。
言い淀んで頬を染めたアカリはやがて、表情を緩めた。
◇◇◇
ぼんやりとした暗がり。
明るさと暗さがひと繋がり、カケルの眼前に拡がっていた。
眼が慣れるのを待って、カケルはあたりを見回した。
なにもない空間。
暗く沈んだ深い闇は地平線のよう。
少し歩いてみるが、不安が高まるだけ。
風景に変化はなく。
進んでいるのか、戻っているのか。
カケルは天を仰いだ。
塗られたコンクリートのような寒々しい宙に、カケルは身震いした。
ふと、はるか彼方に小さな影が見えた。
どのくらいの距離か。
よく確かめてみると、確かに移動している。
こうしていても埒が明かない。
カケルは意を決して、影に向かった。
どれだけ歩いても疲労もなく、身体も軽いことだけが、カケルの唯一の心頼みだった。
想像より意外と近い場所。
以前に見た懐かしい姿に近づく。
「……銀」
その小さな背中。
カケルの言葉にゆっくりと尻尾を振る。
光る蒼い眼。
ちょこんと座って、カケルを見上げた。
「……また夢だね」
笑いかけたカケルに、
「そうかも知れないね」
と銀は応えた。
銀の横に座ったカケル。
やがて。
「なにか、あるの?」
「時間がない」
「時間って……?」
銀の顔を見下ろしてみても、気持ちを読み取ることはできなかった。
「――カケルは」
銀は言った。
「……もう気づいているんじゃない?」
カケルには、確信している感覚はあった。
その正体は解らない。
だから、不安だった。
「性質は変われど本質は変わらない」
銀は続けた。
「いったん途切れたあとは、まるで違う世界が拡がるだろう」
「……なんの、話?」
銀はカケルに向き直った。
「君という本質は変わらない。忘れないで」
言葉が終わらないうちに、銀の姿はサラサラと崩れ始めた。
突風に巻かれるように、カケルの見ている風景も崩れていった。
カケルは掌を見た。
細かく消滅していくさま。
身体が途端に重くなり。
カケルの視界が遮断された。
◇◇◇
暗い天井と照明。
茫然と見上げていたカケル。
ただの一瞬、空いた裡がみる間に埋まってゆく感覚。
「どうかした?」
傍らでは怪訝そうな表情のアカリ。
「……泣いてるの?」
「え?」
瞼に指を当てるカケル。
困惑するカケルに安堵の吐息、微笑みながらアカリはカケルの額に掌をあてた。
「おんなじようなこと、前にもあったね」
落ち着きを取り戻したカケルの話に、アカリの声音も小さくなる。
「ホント、なんだろうね」
「きっと、昔のことを思い出したからじゃないかな」
納得しないような溜め息ひとつ、考えこむアカリ。
カケルは空気を払拭するかのように、
「こういうことって、よく重なるんだよ、きっと」
カケルは笑いかけた。
◇◇◇
「ゴメン、遅れちゃった」
半個室になった座席に通されたアカリは、ひと足先に席に着いていたタクミに掌を合わせた。
「まだ始めたばかりだよ」
とタクミは返し、
「それより聴いたよ、アカリちゃんも変な体験したって」
「そうなの、不思議だった」
話し始めるアカリに、カケルは食器を用意する。
やがて三人分のアルコールが運ばれて。
「とりあえず無事でなにより」
と、三人はグラスを合わせた。
酒の肴もひととおり運ばれてきたころ、
「ま、なんでもなくてよかったよ」
タクミは、安堵の笑みを浮かべた。
「心配かけたみたいで」
「ホント。マジで心臓に悪いから」
「解る。わたしもそうだったもん」
「だよね?」
意気投合するアカリとタクミを横に、カケルは苦笑いしながらグラスに口をつけた。
◇◇◇
「――そうだね、付き合いは長いよ」
アカリの問いに、カケルが答えた。
胡座のタクミは指折り数え、
「小学校からの付き合いだから……」
「じき、二十年なんだ!」
驚いたアカリを横眼で見ながら、
「もう腐れ縁だよ」
と口を尖らせたタクミを見て、カケルが笑った。
「いつの間にかね」
「仲よかったんだ?」
アカリの言葉に、タクミは腕組みで首をひねる。
「そういう感じでもないんだよな。正直」
「つかず離れず、かな」
「こいつ、外で遊ばねえからさ」
「ホント、二人は接点なさそう」
アカリが言葉を継いだ。
「でも、未だに付き合いあるの、カケルだけだもんな」
「ありがたいよ」
二人のようすを眺めていたアカリは、
「いい仲だって、よく伝わってくる」
「あんまり変わらないからかもね」
掌をひらつかせてタクミは答えた。
「もっとも」
タクミは仰けぞり、
「自分の変化なんて解りゃしないけどな」
カケルはタクミの言葉に、
「他人の見方で自分の認識は変わる……?」
「そんなに小難しい話じゃねえって」
一拍のあと、
「性質は変わっても、本質は変わらない」
「……誰の言葉?」
既視感のある言葉。
カケルの問いに、
「覚えてねえ」
と笑い出すタクミ。
「先輩か……? 違うな。いいや、俺で」
「適当だなあ」
つられて笑うカケル。
「結局、そいつはそいつなんだろ。ヒトがどう見ようが」
◇◇◇
瞬きしたカケル。
開け放たれた窓から薄陽が差しこんでいた。
揺れるカーテンと少し肌寒い微風。
キッチンから揺れる珈琲の香り、遠くで洗濯機の音が響いていた。
少し頭が重い。
寝室の扉を開けたアカリは、
「起きた?」
と微笑った。
あやふやな記憶は酒のせい。
「あまり強くないんだから」
アカリは言う。
「それほど呑んだわけじゃ」
「じゃ疲れかな?」
カケルを覗きこむアカリ。
「……大丈夫?」
はっきりしてきた意識が、途端に空腹を伝える。
「……お腹減った」
「お酒も抜けかけてるのかな」
笑いあいながらも思いついたように、
「時間も時間だし、外食しようか」
「そうだね」
「駅前でなにか食べよう」
瞳を輝かせ、アカリは立ちあがった。
「もうこんな時間なんだ」
「珈琲飲んでから行こう」
アカリはふと、
「もう、平気?」
真っ直ぐにカケルの瞳を見た。
「大丈夫、平気だよ。ありがとう」
カケルの返事に、アカリは破顔した。
いつもと変わらない日常。
しかし、昨日とは確かに違う一日の始まり。
「早く早く」
急かすアカリも、慌ててドアの鍵を回すカケルの掌も。
マンションの廊下から見える街並みに、ふと足を停めたカケル。
アカリは振り向いた。
「どうかした?」
「いや……」
小さく苦笑いのアカリが促す。
「さ、行こ」
「ゴメンごめん」
伸ばされた腕、差し出す掌。
掌と掌が軽く触れ。
繋いだ指の温もりを感じながら。
いつものように、いつもと違う一日が始まる。
◇◇◇
遠くでサイレンが響いていた。
急に崩れ始めた空模様を気にしながら。
帰途に着く足取りも、降り始めた雨で自ずと忙しげになる。
まだそれほど激しくはない雨足と、行くべき距離を逆算して。
畳んだままの傘を持ち直して、カケルとアカリは歩みを早めた。
交差点で信号を待つ。
何人かのヒトが傘をさしはじめる。
少し、雨が強くなったようだ。
傘を開き始めたアカリ。
カケルも傘を持ち直し、天に向けた。
灰色の風景を一瞬、遮断して。
音を立てて開いた傘を肩に、交差点の向こうを見た。
「――?」
対岸で待つ人影。
カケルは眼を凝らして見た。
薄く落ちる影に紛れて。
よく見知っているヒトが立ちつくしていた。
――カケル。
カケルとカケルが対面していた。
遥か向こうの彼は、カケルの姿を捉え、真っ直ぐこちらを見つめたまま。
ふと。
静かに人差し指を突きだした。
カケルの動悸が早鐘を打つ。
眼を外すことができず、息を呑んだ。
喉の渇き。
彼はしなやかに、その指を降ろした。
なにかを断ちきるように。
そして。
踵を返した。
◇◇◇
突然に解放されたような慣性。
カケルは遥か向こうの自分に、掌を差し伸ばしていた。
「待っ……」
消えてゆく後ろ姿に追いすがるように。
ざっ。
耳許で響き始めるノイズ。
一瞬ですべてに霧がかった。
「カケル!!」
意識を叩く悲鳴に、カケルは我にかえった。
刹那。
遠くで聴こえていたクラクションが、不意に耳許で鳴り響いた。
カケルの眼のまえで。
フロントガラスの向こうでハンドルをきる、歪んだ形相の男性を見た。
額の汗が滑り落ちるさまを見た。
次には、カケルを襲った強い衝撃。
灼ける感覚と、めまぐるしく回転する視界。
ふと、灰色に裂けた空から落ちる雨粒を、カケルは見た。
交差点の向こう、各々が表情を強張らせていくさまを見た。
きな臭いブレーキの匂い。
眼の前に迫ってくるアスファルトの黒い輝きを、その節目の拡がりをはっきりと見た。
緩やかに近づいてくる眼の前の黒。
カケルは。
急に押し潰された重さを一瞬、それきりもうなにも感じなかった。
遠くで仔猫の声を聴いたような気がした。
……(続く)