【大田区のハナシ #3】「埋立地のハナシ」

東京23区のなかで最も広大な面積を有しているのは、実は大田区です。
昨今は羽田空港の路線確立の工事などが行われていますが。
大田区は、埋立地の拡張で土地面積がいまだに広がっているのです。

実は、大田区に限らないこのあたり(京浜工業地帯)、埋め立てにはちょっとした歴史があります。
東京湾は元来より遠浅で、船舶が湾内に侵入しづらいという懸念事項がありました。
東京港として開港するためには、航路の開削が必要。しかし資金がない。
二の足を踏んでいるさなか、大正12年、地震が起きます。

関東大震災です。

当時、すでに新橋から横浜を繋ぐ鉄道が施設され、近隣では京浜電気鉄道が開業、陸のインフラが整備されていたのですが、この地震で無力化。
海洋交通の重要性に、改めて気づかされることになりました。

昭和2年「京浜運河」の開削と埋立地造成計画が立ち上がります。
航路を開削し、この土砂で一大臨海工業地帯の礎となる埋立地を作り上げるという構想でした。

しかしいざ着工すると、もともと漁業が盛んなこの地、これを生業にする地域住民や組合から反対の声が上がり…。
また、「太平洋戦争」による資金難も重なり、昭和18年、とうとう開削工事は打ち切られます。

「京浜運河」の工事が打ち切られ、後に残ったのは中途半端に埋め立てられたまあまあ広い土地だけ。
この埋立地に眼をつけたのは、軍部の人間でした。
当時、品川にあった俘虜収容所をこの埋立地に移設、「東京俘虜収容所」の本所を建てたのです。
600人あまりの連合軍兵士を収容したまま、終戦を迎えました。

俘虜収容所はこののち、日本のA級戦犯の仮収容所として機能したのは皮肉でしかありません。
それが、「平和島」の前身です。

先の「京浜運河」計画は頓挫していましたが、中止ではなかったようです。
昭和42年、「平和島」が竣工します。さらに同年、平和島一帯の埋立地は大田区に編入されます。
現在、「東京俘虜収容所」の跡には観音様が祭られています。

もともとこの近辺には温泉が湧き出ていたので、行楽地という側面も持っていました。
その流れでしょうか、昭和32年、「大森競艇場(現ボートレース平和島)」の開場に続き、「平和島温泉会館」がオープンします。
大浴場、食堂、大広間、はては遊園地や巨大プール。
「大江戸〇泉物語」のはるか先を行くレジャー施設があったのです。
こちらの温泉は、姿かたちを変え、「天然温泉平和島」として現存し、その建物「BIGFUN平和島」はこの温泉を擁した複合施設として、休日や競艇開催日には賑わいを見せています。
さきほど登場した観音様は、「平和観音」の呼称でボートレース場入場門わきに設置されています。
かつての土地を見守る観音様に思いを馳せるのも、またよしですね。

最後に、東京俘虜収容所の簡略歴を置いて、おしまいにします。
この埋立地で、「文学フリマ東京」が開催されるっていうのも、なんだか感慨深いなあと思ったりもします。


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東京俘虜収容所(東京捕虜収容所)簡略歴

1942(昭和16)9月12日開設:「品川俘虜収容所」
1942(昭和16)9月25日改称:「東京俘虜収容所本所」
1943(昭和17)7月20日移設:大森区入新井町東京第2埋立地(現大田区平和島1丁目付近)

終戦時収容人員:606人
内訳:米437、英115、蘭28、他26
収容中死者:41人

紹介

ーー東京都大田区。 大田区で育ち、大田区に魅入られた者が、文筆活動をつうじて大田区の魅力を勝手にお伝えいたします。